#0024 『スイミング・グレイ』


「あー、セイちゃんのトレーナーさん!」
 背後から声が掛かって振り向くと、銀髪をふわふわと揺らしながら小走りに寄ってくる一人のウマ娘がいた。
「やあ、ヒシミラクル。……その後はどう?」
「そうそうそれ! もう、私のトレーナーさんったらひどいんですよ?」
 手を腰に当てて、ぷうっと頬を膨らませて、彼女は続ける。
「今日もまたプールに入れるって言うんです! こないだ、あんなことがあったっていうのにですよ? 人の心とかないんですよあの人!」
「ははは……まあまあ。彼は彼なりに色々考えて、それでもプールで君のスタミナを鍛えたいと思ってそう言っているんじゃないかな。あんまり悪く言ってやらないであげてくれよ」
「むー。そうかもしれませんけどぉー」
「で、トレーニングをボイコットして逃げていると?」
「私のトレーナーに会っても、言わないでくださいね?」
「俺はそこまで鬼でも悪魔でも、あと英語の先生でもないつもりだけどなぁ。……それはそれとして、うちのスカイ見なかった?」
「セイちゃんもボイコット?」
「いつものことだけどね? まあアイツも泳ぐのは苦手だから、明日は水泳だぞって軽率に言ってしまった俺にも責任の一端があるけどな」
「セイちゃんもプールの予定だったの?」
「うん。次に目指すレースが長距離だから、スタミナはいくらあってもいいからね」
「そっかー……そっかぁ。ということは私、今日はセイちゃんと一緒にプールでトレーニングだったんですね」
 ふむふむと首を小さく何度か縦に振ると、ヒシミラクルの右手の人差し指が背後の校舎の端を示した。
「今日のセイちゃんの避難場所はですねー、図書室の奥の閲覧机!」
「……お、おいおい、いいのか仲間を売って。俺は有難いけども」
「えへへー。私もプール行きますから、トレーナーさんもセイちゃん連れてきてくださいね。来なかったら本当に英語の先生ですからね?」


「……と、いうことがありましてね」
「いや……本当にもう申し訳ないというか面目ないというか……」
「いやいや、そんなことはないですから」
「しかし……前回もうちのミラ子を助けていただいたし、もう顔向けが……」
「あれも単に気づいたら身体が動いていただけといいますか、それができるのが自分しかいないのなら、やるのが自然じゃないですか。だからそれも気にしないでください」
「俺なんて、絶叫するしかできなくて……本来なら俺がいの一番に飛び込んで向かわなければならなかったのに」
 ふわりと舞い上がる濃緑のウインドブレーカー。トップスピードでプールサイドの縁でたわめた膝のバネを使った跳躍、四メートルほど宙を飛び、水面に呑み込まれる体躯。その勢いに反したチャボッという小さな音、小さな波紋。減衰されない跳躍のベクトル、水中で更に加速する影。
 大きなこのプールのほぼ中央付近では、使用者の手が離れたビート板が浮かんでいて、その三メートルほど手前で派手に上がる水飛沫。一気にそこに距離を詰める魚雷のように。
「……今日は彼女、遅いなりにしっかり泳げているみたいですね。身体に無駄な力が入っていない」
「あなたのおかげですよ。何かあってもまた助けて貰える。そういう安心があるから。……それはそれとして、自分の担当のこともしっかり見てあげてください。むすっとした顔になってますよ?」
「……あー、はは……。ちょっと行ってきますね。もしヒシミラクルにまたアクシデントがあったら、ホイッスル吹いてください」

「随分とお鼻の下が大井の最終直線だったじゃないですか、トレーナーさん」
 バタ足することも止めて、ただビート板にしがみついてぷかぷか浮いているだけのスカイを見て、苦笑しつつ膝をついて覗き込む。
「一緒に泳ぐか?」
「えっ?」
「もし事故があっても、プールサイドじゃ現場まで行くのに時間が掛かる。でも、スカイの横にいればスカイが溺れても秒で助けられるからな」

「もう……そういうとこですよ」



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