#0021 『それとは別の一畳の楯を』


(注釈) このセクションは、本編と少し出来事が違うスピンオフ的な作品です。


 騒がしい雨音を深い緑が揉んでくれるから、そんなに耳障りに感じなくて。
 魔法瓶から蓋を兼ねたコップに注いでくれたカフェオレは砂糖が入っていないのかちょっと苦くて、そして熱くて。
 そんなカフェオレを魔法瓶から直接喉に流し込むあなたの身体は濡れて冷たくて。
 黒く大きなジャケットとキャスケット、そして紺無地の傘は、まだ少し冷たい晩春の雨から私を守ってくれて。
「ここ……なんていうところですか?」
「スズシノモリのお宮さんだね」
「スズシノモリ?」
「温かい・涼しいの涼しいという字に、フォレストの森と書いてスズシノモリ。単にスズモリと読ませないところが雅の妙ってやつかな。……人によっては、いかにも京都を鼻にかけたようで気に入らないって評するけどな」
「そうかな……うん、そうかもしれませんね、どっちの意見も」
「……気に入った?」
「よくわかんないです。ちょっと色々ありすぎたから」
「ちょっとしたシェルターというか幼い子どもが好きそうな隠れ家というか……秘密基地っぽい雰囲気だろう?」
「……そうですね、それは感じなくもないです。……それにしても、よくこんな場所を知っていましたね?」
 細い路地から細い路地へと左右に幾度もぐちゃぐちゃに曲がってきたから感覚が覚束ないけど、おそらくあの外縁からまだ直線で千五百とは離れていないと思う。なのにさっきまでいた京都レース場の熱気と喧噪が嘘のように静かで、隔絶されていて、薄暗くて、だけどとても安心できる。この人の隣にいるということを差し引いても。名は体を表すという言葉をここで使うのが適切かどうかはわからないけれど、ここは確かにスズシノモリだと思った。
「十数年来ていなかったけど予想通りというか、予想以上にというか……あまりにも変わってなかったからな。色々な意味で、それがラッキーだったわけだが。……そういえば言ってなかったっけ、この辺なんだ、俺の生家があったところ。だからこの神社は庭のような、じゃなくて、もう庭だったと断言しても差し障りないだろう」
「初耳ですよ。そうだったんですか?」
「だから淀のレース場なんかも庭みたいなもんだったんだ。さすがに週末は子どもの行く場所としてはいささか治安が良くないと足を向けることを禁じられていたが、平日は思いっきり走り回れる公園みたいなね。……場内の環境整備やターフの手入れをする職員のウマ娘さんがいてさ。俺ら悪ガキどもに慕われて、部外者立入厳禁の控室や地下通路、あまつさえ貴賓室までこっそり見学させてもらったりもして、で、無事にこうして中央のトレーナーが一人増えて、縁あって今はこうしてスカイの担当トレーナーというわけだ」
「……十数年来ていなかったと言いましたね? ということは、今は実家はこの辺じゃないと?」
 トレーナーさんとの縁の起点。その事実をにわかにすっと受け入れることが難しくて、私は時間を稼いだ。
「んー……今はこの辺じゃないというか……」
 言葉が濁って、トレーナーさんは少し顔の角度を上げる。
「もう俺には実家はないよ。だから東京・府中のトレーナー寮。あそこが俺にとって唯一の、肩身の狭い思いをすることなく堂々と入っていける家……みたいなものかな」
「えっ?」
「雨の高速道路、渋滞の最後尾、大型トレーラー、過積載、飲酒運転、ノーブレーキ……これだけ言えば、頭のいいスカイならほとんど理解できると思う。……だから最後に見た親の姿は、『大きいのを釣ってくるからな』という満面の笑顔だ。それが家庭崩壊劇の、せめてもの幸せな要素さ」
「あっ……」
「悪いことを訊いてしまった、という顔してるぞ? 一回目は知らないんだから避けようがない、ノーカウントだ。仕方ないさ」
 人差指で私の額をちょっと掻き上げて、その先でちょんと突かれた。
「でも……」
「ストップ。おおよそ、スカイは『知らなかったとはいえ』ごめんなさい、とでも言おうとしただろう? ……非がないことを謝るというのは、処世術としては正しい場合もあるだろうけど、少なくとも今のシチュエーションでそれを使うのは悪手だぞ。相手が不問だと言っているのだし、そもそも俺はスカイにこれはもう隠す情報じゃないと思って胸襟を開いたんだから、二度目をやらなきゃそれでいいんだ。蒸し返して謝るというのは、意図的にその二度目を自ら進んでやろうとしているに近しいこと……だと、少なくとも俺は感じるよ?」
「……はい。覚えておきまーす」
「……うん、レース場を出る直前からずっと強張っていた表情がやっと柔らかくなったな。少しはココロのクールダウンができたか?」
「……あっ。……そういえばクールダウンが必要そうなイベントがついさっき起きていたこと、……私、さっきのトレーナーさんのインパクトで、それすら忘れてました」
「そうか、それならそれでいいと思う。もう少ししたらウィニングライブのリハーサルが始まる。本番のライブがあって、その後までは、さすがにスカイを匿うことは難しい。俺も横で可能な限りのサポートは尽くすが、矢面に立ってもらうという重責だけは代行できない。そこは非常に申し訳ないが、頑張ってくれ」
「あははー……みんな強かったですね。もうセイちゃんの時代じゃないんですね」
「勘違いしちゃいけない。確かに今日の天皇賞に出た連中は、本当に強かったよ。それは事実だ。……だが、それは決して『セイウンスカイは弱い』ということを意味しない。どんなに心ないことを記者連中から言われたとしても、そこだけは譲るな。セイウンスカイという存在は、俺にとって永遠に担当できたことを誇りにできる最高のスターアスリートなんだ。決して泣くな、折れるな。空元気でもいいから笑え」
「……つっ! そういうところですよトレーナーさん! そんな、勘違いしちゃいそうな言葉を臆面もなく言わないでください!」
「勘違いか……。おそらくスカイが勘違いということで処理しようとしていることは、勘違いではないぞ」
「……えっ?」
「さて。スカイは決して弱くない。だがこの大敗については、間違いなく今後の進退を問われるだろうな。……そこで、スカイはどうしたいと思っているんだ? 俺の見立てでは、確かにもうG1は厳しくなってきてはいるが、まだまだ重賞でもG2やG3、オープン、あるいは地方に転戦すればまだまだ戦えると思うし、その気があるなら今後もトレーナーとして全力で走りをサポートする。しかし」
「そこから先は言わなくてもわかりますよ。セイちゃんはもう存分に暴れさせてもらいました。セイちゃんは弱くない。それは事実ですけど、そんなセイちゃんよりも強い後輩ウマ娘が次々と出てきています。なので私も、そろそろ次の段階を踏む時期が来たと、そう思っていますよ」
「……わかった。次の段階を踏むとなると、俺はスカイのトレーナーではなくなる。契約は終了だ」
「そうですね……もうお別れですね」
「早とちりはスカイの悪いクセだな」
「どういう意味です?」
「むろん、スカイさえ得心すればという絶対条件を遵守した上での話なんだがな?」
「……はい?」
 トレーナーさんはすっと腰を落とす。片膝を石畳に着き、自分の胸に手を当てて、私を見上げて。


「セイウンスカイ、俺と次のステップに進んでくれないだろうか」



PREVIOUS INDEX BBS NEXT