#0018 『セイちゃんは祝いたい』


 今日だけでもう六回。それは私がカレンダーを見た回数。
 五月六日の日曜日、それが、今日。
「ちぇー。今日で連休もおしまいかぁ……」
 先日までの私なら、そのままうずくまって地面に「の」の字でも書いている程度にやさぐれていたかもしれない。でも、今年からはちょっとだけ、ほんのちょっとだけだけど、違う。
 昨日までで連休を満喫した私は、すっかり身体を動かすための準備を整えて、朝の六時に外に出ていた。このセイちゃんがですよ。拝啓、青葉の候。東の空は水色に澄んで、そよぐ風が快くて。
「あーたーらしーいーあーさがきた、きーぼーおのーあーさーだ、よーろこーびにむねをひーらけ、あーおぞーらあーおーげー」
「らーじおーのーらーららー、すーこやーかなーらーららー」
 この辺は歌詞の記憶が怪しいので誤魔化しながら。
「こーのららーらららーにひらーけよ、そーれいち・にっ・さん!」
 脚が弾むように前に進む。腕も大きく振って歩きたくなる。
「あーたーらしーいーあーさのもと、かーがーやくーみーどーり、さーわやーかにららららーらら、つーちふーみしーめーよー」
 ふと足下にクローバーが四枚の葉を広げているのを見てかがみ込んで。
「らーじおーとーらーららー、すーこやーかなーてーあしー」
 摘もうと思って手を止める。私が無造作に摘んでしまうと次にこれを見つける誰かがいなくなる。しあわせは次の誰かにお裾分け。
「こーのひろーいつちーにのばーせよ、そーれいち・にっ・さん!」
 その四枚の葉をそっと撫でて気持ちだけをもらって、ぴょこんと立ち上がる。大きく伸びをしながら建物を見上げると。
「おやおやー、今日も不夜城でしたか」
 煌々と電灯の光が漏れている部屋。そこは私の、セイウンスカイのトレーナー室。
「いけませんねぇ。私には規則正しい生活をしろ、早寝早起きっていつもうんざりするくらい言うくせに、自分は夜更かし上等・徹夜上等だなんて、これはちょっと理解(わか)らせなきゃいけませんねえ」
 建物の入口扉をくぐると、階段をトントントンとリズミカルに登っていく。三階までたどり着いたら左に曲がって七番目。廊下の突き当たり、明確にここに用事がなければ前に来ることすらない場所。私がお昼寝場所として無断借用することもうなずける場所。やはりそこからは廊下にも照明の光が漏れている。無造作にドアの把手に手を伸ばそうとして、思い直して一応先にドアを叩く。親しき仲にも礼儀あり。私がトレーナーさんにオープンにできないことがあるみたいに、トレーナーさんだって私に見せられない事情があってもいいはずだから。トレーナーさんが私に対して意図的に隠す事柄があったとしても、それに不満を持つほどまでは私は愚かではないつもりだから。
「おっはようございまーすトレーナーさん! あ・な・た・が、愛してやまないセイちゃんが来ましたよ?」
 気恥ずかしくなってきておどけて言ったけれど、それへの返事はない。どころか、ことりとも物音が聞こえない。
「……開けますからね?」
 扉を開けると、デスクの上のノートパソコンは画面が閉じられていて、ノートもバインダーも鉛筆も、いつもの位置に置いてある。大量に資料があって綺麗ではないけど、乱れてはいない。整理は不十分だけどきちんと整頓はされてる、そんな状態。
「おやおや、施錠もせずに不在なんて不用心ですねえ。不用意に誰かに侵入されて、私の次に走る情報がライバルに漏れたらどうするんです?」
 ソファーを見やると、トレーナーさんの仮眠用のカーキ色の毛布が畳んだ状態で置いてあり、枕代わりの臙脂色のクッションも毛布の上に載せてある。トレーナーさんが枕カバーの代わりに使う地球屋雑貨店の色褪せたベージュのタオルもまだ使われていない状態で重ねてある。ソファーの前のテーブルにはトレーナーさんのスマートフォンがケーブルに繋がれた状態で置いてあって、その横には空になったコップと、シートから中身が出された殻が三個。何の気なしにそれを手に取って裏を見る。
「ええっと、エスゾピクロン一ミリグラム錠、……就寝前服用?」
 表に返すと小さな文字で書いてある『不眠症治療薬』の文字。
「えっ? トレーナーさん、不眠症……だったの?」
 私の背後からカタン、という硬い音がして、尻尾がビクッと伸びた。
 そこには会議用の長机があって、その折りたたみのパイプ椅子に、トレーナーさんがいた。傍らにはカップのきつねうどんの容器。その上にお箸が一本だけ載っていて、もう一本は机を転がっていた。さっきの音は、たぶん容器の上で蓋を押さえていたこのお箸がテーブルに落ちた音。
「……寝てる?」
 恐る恐る近寄ってみれば、トレーナーさんは自分の腕を枕にすることすらなく、机の上に直接額を乗せていた。カップ麺の容器は蓋が膨れ上がっていて。
「……完全に伸びてるじゃない」
 いつお湯を注いだのか、もうスープは残っていなくて、そのスープを極限まで吸った麺が半分めくった蓋から顔を覗かせている。
 トレーナーさんは動かない。いや、十秒に一回くらいのペースですうすうと小さな音と共に肩が上下しているので、少なくとも生きてはいる。ただ、相当お疲れではあるみたいで。
「これは……夜中遅くまでお仕事して、疲れちゃって少し仮眠を取ろう、寝床の準備をしました、睡眠薬を飲みました、でもその前に夜食にしよう、カップ麺にお湯を入れました、五分待ちましょう、待てませんでした、スヤァ……かなぁ?」
 いずれにせよ、ウマ娘のトレーナーとしては……。
「あるまじき姿だよね、うん」
 寝る前に、寝るのに適した、楽だけどラフじゃない着衣に着替えようという意思はあったらしく、会議机には予備のジャージの上下がある。そしてその隣にはいつものスラックスとカッターシャツが畳まれてほどいたネクタイがとぐろを巻いている。つまり、ダークレッドのタンクトップとダークグリーンのビキニブリーフという、目のやり場に困るけど目が離せない、実に扇情的でけしからん姿。
「多感な少女がいつ来てもおかしくないトレーナー室で、こんな格好で無防備を晒すのは、一方的な契約解除を言い渡されても不思議じゃない重大な背反行為ですよ……ホントにもう」
 もはや食べるには大幅に旬を過ぎているものの、じいちゃんに育てられたこともあって、いかなる場合に於いても食べ物が食べ物である以上、それを粗末にすることを肯定する教えを私は受けていない。トレーナーさんの塗箸を掴むと、そのカップ麺を私は啜る。もう啜るというよりは流し込む。これはもううどんではない。うどんのお粥。でもまだ腐ってはいない、つまり食べ物、だから粗末にしてはいけない。そしてわざわざ割箸を使うのはエコじゃない、だからここにあったお箸を使ってもいい。私のお箸じゃないけど、トレーナーさんのことだからちゃんと洗ってあるはず。だから不潔じゃない、大丈夫。仮に洗っていなかったとしても……いやいや邪念を捨てろセイウンスカイ、無我の境地、今だけはお兄ちゃんさんに師事したつもりで素数を数えるんだ、二、三、五、七、十一……。
「……ふう、ごちそうさまでした」
 トレーナーさんはまだ動かない。……風邪を引かれても困るしね……。
 一旦ソファの毛布を跳ね上げてから、再び会議机に戻った私は、トレーナーさんの身体の下に腕を差し込む。
「よいしょ……」
 思ったよりはかなり軽くて、若干拍子抜けしつつも、温かい素肌の感触にドキドキしながらソファにトレーナーさんを運ぶ。トレーナーさんの身体をソファの座面に横たえて、上から毛布を広げてあげる。色香を隠すことができて、やっと胸の鼓動の加速が止まる。……加速が止まっただけで、今のトップスピードは維持されたままだけど……。
「こんなとこですかね?」
 しばらく入浴した様子もないトレーナーさん。おそらく、三日から今日までがカレンダーが赤い日だから、三日か、あるいは二日からトレーナーさんはここに館詰めだったのだと思う。だから、その濃い匂いが移って、まだ私の体操着から立ち上ってくる。不謹慎だとはわかっていても、その匂いをもっと嗅ぎたいというよこしまな考えが離れない。
「さすがに抱き枕はダメでも……」
 私はそそくさとトレーナーさんの頭のほうに移動すると、その頭の少し先に座って、トレーナーさんの頭を持ち上げて、じりじりと詰めていく。その頭の下に自分の腿が来たところで、ゆっくりと腕を降ろす。
「にゃはは、愛しのセイちゃんによる膝枕ですよ? どうですかトレーナーさん?」
「……んっ……うんっ?」
 抱き上げられたり頭を上げられたりしたせいか、一度ゆっくりとまぶたを開いたトレーナーさん。数秒ほどぼんやりと、焦点が上手に合わない瞳で周囲をキョロキョロしていたかと思うと安堵したみたいな柔らかい表情になって私の腿に頭を戻してまた瞳を閉じて……その八秒後、バチッと音がするかというくらいに大きく見開くと、猫が驚いたときみたいな、あるいはトランポリンに着地した体操選手のように跳びはねて二メートルの距離を作った。
「おはようございます、トレーナーさん」
「な……なにが、あった?」
「なにも? あっちの会議机で爆睡されてましたけど、それくらいですよ?」
 自分の身体の上にあったブランケットを、わたわたと引ったくるように取ると自分の身体を覆う。作品の最後で少女が捧げた緋色のマントの想定された用途のように。
「スカイごめん、とんでもなく見苦しいものを」
「見苦しくなんかないですよ? それに休日のこんな常識外れな時刻にここに来るのは、空巣の類でなければ、いいとこ私くらいしかいないことくらい、トレーナーさんだって知ってることじゃないですか」
「……まさかそのスカイすら来るとは思わなかったんだ……本当にごめん、油断してた」
「確かに油断かもしれませんけど、そのセイちゃんのためにこんなになるまで頑張ってくれたんですよね? であれば私は、トレーナーさんに感謝こそすれ、格好が見苦しいと文句を言うとかやる気を下げるとか、あるわけないじゃないですかー」
 毛布の下からジャージのトレパンを穿くと、トレーナーさんはウインドブレーカーに手を通しながら。
「確か今日まで休みにしておいただろ? 今日はどうしたんだ、こんなに朝の早くから。……自主トレでもしたくなった?」
「自主トレだなんてやだなぁ。このサボり魔のセイちゃんをなんだと思ってるんですか、自主トレなんて天地がひっくり返ってもあり得ない……とか断言しちゃダメですね、にゃはは。でも自主トレをすることでトレーナーさんが喜んでくれるなら、少なくとも今日だけは、セイちゃんやぶさかじゃないですよ?」
「……え?」
「おめでとうございます、トレーナーさん」
「……なにが?」
「はい……? いや、今日は五月の六日じゃないですか」
「うん、五月六日だけど、それがなにか?」
「……本気で言ってます? トレーナーさんの誕生日でしょう?」
「……そうだっけ? あれ、そもそも俺、誕生日いつだっけ?」
「今日でしょ? 運転免許でも見て確認してくださいよ!」
「……あ、確かに生年月日の欄に、五月六日って書いてあるわ。そうか今日か」
「ビックリしたじゃないですか! だからセイちゃんがトレーナーさんの誕生日を祝ってあげようとしたのに! あなたが望むならトレーニングだってしちゃうよって覚悟まで決めて!」
「……あー。気持ちだけは有難いが、もうこの歳になると誕生日に特別な意味なんてないよ。それこそ四月六日や六月六日と何も変わらんし、スカイの四月の二十六日と較べればどうということはない日だ」
「私よりたかだか十か十一ほど上なだけじゃないですか。……それとも、祝われるのがイヤ、でしたか?」
「むしろ今日が誕生日だとしても、それを特別な日だと認識して特別な気持ちや振舞いで過ごすというのは、個人的にはあまり好ましくないな」
「そう……でしたか……。ごめんなさい、トレーナーさんの気持ちも考えないで、私だけ盛り上がって……」
「あ、でもなスカイ」
 立ち上がりかけた私をトレーナーさんの声が制した。
「さっきも言ったように、その気持ちだけは俺、今すごく嬉しいんだ。他の誰がそうしてくれてもなんとも感じなかったと思うけど、スカイが祝おうとしてくれた、それを知れたことだけは、さ」
「トレーナーさん?」
「ただ、今は凄く眠いんだ。……寝て起きてシャワーを浴びてから。だから昼過ぎ」
「……」
「誕生日にまで、誕生日であることも、そもそも誕生日という概念まで忘れて徹夜仕事をしていたワーカホリックに、ちょっとでいいから、外の世界を教えてやってくれるかな?」
「……はい!」
「じゃあ、あとで……な……」
 今度こそ本当に予備電源の電池までもが尽きたのか、再びソファの座面に倒れ込むトレーナーさん。
 本当にもう、あなたという人は。私のトレーナーさんになった頃、不眠のふの字もなかったはずなのに。私のなにがそこまで、あなたを追い立てているんですか。もっと自分のことを構ってあげてくださいよ。これじゃまるでセルフネグレクトじゃないですか。何してるんですか。
 それから。……わかりましたよ。今日のあなたを私は特別扱いなんかしませんし、あなたに特別な振舞いも期待しませんよ。だから、午後からセイちゃんと、いつも通り今後についてのミーティングをしましょう。……でも、たまには担当のやる気を上げるために少し気分を変えて、おしゃれなカフェとかレストランとか、そういうところで話をしてもいいんじゃないです? プレゼントもあるんですけど、これは誕生日のお祝いじゃなくて、いつもお世話になってる感謝の印。だから、誕生日云々を理由に受け取らないというのは許しませんからね?
 ……とにかく。今はゆっくりと、おやすみなさい、トレーナーさん。好きですよ、とても。
 無防備な寝顔の頬をふわふわと撫でながら、私は今日の午後からの『トレーニング』計画について思いを巡らせ始めたのだった。


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