#0017 『それはあなたの責任だから』


「んっ……」
 まぶたの上から光が差してくるのを感じて目を開くと、視界の大半に壁があった。
「おはよう。よく眠れた?」
 壁が喋る。石鹸の香りに混じる私の大好きな匂い。私は問いかけに答えず、その壁に顔を埋めて擦りつけた。
「……くすぐったいなぁ」
 困惑するように壁が喋るけど、嫌がられてはいない。その証拠に、その壁は私の後頭部にアームを伸ばして、ぐいっと擦りつけることをサポートしてくる。
「にゃはは……おはようございます、あなた」
「うん、おはよう。……といっても、もう十時だけど」
「いつもあなたは三時前、私は五時半に起きているから、盛大にお寝坊ですね?」
「いいさ、今日くらい。こういう時間を作るために休みにしたんだから。……朝メシはどうする? 望むなら、あらかた仕込んであるから五分か十分。それくらいで準備できるけど」
「うん、私、ちょっとお腹空いたかな」
「わかった、支度してくるよ。寝間着から着替えたら降りておいで」
 壁は私から離れようとする。私はその動きを止めた。
「着替えさせて」
「……うん?」
「だから、着替えさせて」
「かしこまりました、姫君。……今朝は随分と甘えたがりだな?」
「きょうは一日、私の命令を全部かなえてくれるって約束ですもん。今日は全部あなたにおまかせするよ?」
「そうだったな。ではまずは、ベッドの縁にお座りくださいませ」
「抱き起こして」
「……はいはい」
 ベッドの縁に腰掛けた状態にされると、確認の言葉の後、パジャマの前ボタンが外されていく。『食べられちゃう』ときの猛々しさはないけど、それでもあの人が私に手をかけていることを思うと、結構ドキドキする。
 まず右腕が袖から抜かれ、左腕も。露わになった素肌にはふわりとブランケット。
「私を押し倒して好き勝手にしちゃっても、それはそれで良いんですよ?」
「……いや、俺が押し倒されてスカイに本懐を遂げられるならともかく、俺がスカイを押し倒して欲を満たすっていうのはさすがに。きょうは四月二十六日なんだから、スカイを後回しにして俺が先にいい思いをするのは、それは違うんだ」
「もう、変なところで真面目なんだから。……でもでも、欲に負けて私を押し倒すことが、あなたにとっては『いい思いをする』ことだって、そういう定義はしてくれてるんだ?」
 壁、もといあの人はまた少し困ったような恥じらいを含んだ表情で小さく頷きながら微笑むと、畳んであったブラウスを手に取って私に着せてくれる。続いてベッドに上体を押し倒されて、両足を持ち上げられて下を剥がされて、同じように晒した脚にブランケットを掛けられて、その下からやはり畳んであったスカートが履かされる。……これ、思っていたよりかなり恥ずかしい……。
 最後に靴下。再び上体を抱き起こされて、あの人は私の前にかしづくように正座して、その腿をオットマンの代わりにして私の足裏を乗せると、手際よくくるくると丸めた靴下が私のふくらはぎを覆い隠す。なかなかこれも……気恥ずかしい。頬に熱を帯びてくるのがわかる。
 続いては私の髪を手櫛で梳いて大まかに整えて、髪を一房ずつ丁寧に取ると今度はブラシを入れてくれる。頭皮に伝わる柔らかい刺激がもどかしい。 「はい、これでOKかな。……昔の、現役時代のあの猫毛から思うと、髪にコシやハリが出てきたな」
「それはあなたが、石鹸で髪を洗って薄めたお酢でトリートメントっていう裏技を教えてくれたから……」
「あれ効くだろ?」
「あなたはトレーナーさんの頃から、男なのに髪は綺麗でしたもんね。なんであの頃に教えてくれなかったんです?」
「いや……俺はスカイのあの猫毛は嫌いじゃなかったし、それに、今みたいに一緒に風呂に入るなんて習慣もなかったから、教える機会がなかった」
「あの頃に一緒にお風呂に入ってたら世間的には大問題でしょ? ……私個人としては、やぶさかではなかったんですけど」
「……まぁ、指を入れても絡まずにすっと流せる今のこの艶のある髪もいいよな。本当に、綺麗になったよスカイ。大好きだ、愛してる」
 直接的に言葉の武力で私の心を乱してくるのは反則だと思います! そう思っていると、私の前にふわもこのパステルグリーンのスリッパを揃えてくれたので、もう一段甘えてみる。
「ねえあなた、下まで抱き上げて連れて行って」
「老体にキツいなぁ。もしこれで腰をやったらなんでも言うことをかなえるのはおしまいだぞ? それ以降はもうおねだりを受けられないからな?」
 そう言いながらも私を軽々と抱き上げてくれた。私は彼の首に腕を絡めてぎゅっと密着する。
 事前にドアを開けていなかったので、私が寝室のドアを開けると、廊下を横歩きに進んで階段をトントンと降りていく。うまく膝や腰のバネを使ってくれるせいで、腕に抱かれた私には階段の衝撃が来なくて、綿雲に包まれているみたいに穏やかで。
 ダイニングに着くと卓袱台の前に下ろされる。何も言わなくても座布団が出されて座るようにサジェストされる。
「じゃあ、五分ほど待ってね」
 いつもはあまり出番がないテレビの電源を入れてくれる。チャンネルはケーブルテレビの釣り番組。
「今日のテーマは関アジですって」
「アジは今焼いているけど、さすがにそれには勝てないなぁ」
 台所に立つあの人に声をかけると響いてくる。
「もう少しだから待ってて」
 アジの干物と甘い玉子焼きを同時並行で焼きながら、あの人が声をかけてくれる。
「はい、お待たせ」
 麦ごはんに自然薯の摺下ろし、大根とネギのお味噌汁、焼いたアジの干物と玉子焼き、茗荷の酢漬け、そして人参のグラッセ。
「グラッセ作ってくれたんですね。嬉しいなぁ」
「それ好きだって言ってたから。そこまで作るのも手間じゃないし」
「それなら毎朝作ってくれても良いのに」
「さすがにグラッセを毎朝作るとなると、こいつだけ手間と時間のコストがちょっと大きいんだよ。……でもまあそこまで喜んでくれるなら、誕生日とかそういうの抜きで、今後、ローテーションに組み込むように善処はする」
「おっ、殊勝な心がけ。セイちゃんの好感度が上がりそうですよ?」
 朝の献立自体はいつもとあまり変わらないけど、ちゃんと私の好物を添えてくれたことに感謝しながら箸を進める。
「ふぅ、ご馳走様でした」
「はい、お粗末様でした……ところでスカイ、あの後全然テレビ見てなかったな?」
「あなたのせいで、テレビを見ながら食事するという習慣が私の中から駆逐されて消滅したせいじゃないですか。なにを他人事のように?」
「そうだったな、ごめん」
「いや、いいんですけどー」
 不思議な感覚。いつもならこの時間にはあの人は店の厨房にこもってランチの仕込みをしているのに、今日は私のそばにいる。私の命令を忠実にかなえてくれる召使いとして、私への愛を証するために。
「じゃあ、この後はどうする?」
「んー……どっかお出かけするのもいいなぁ。ちょっと遠出して、景色の良いところでお昼寝とか」
「そういえば今頃だとツツジが見頃だな」
「あー、じゃあドライブ。ドライブに行きたいなあ」
「わかった。いま車を出してくるから」
 なんて言ったけど。でも、うちにある車といえば、あの人がトレセン学園の退職金で買ったウォークスルーバン。……あれは荷物が載せられるしフードトラックに改造してあるからアウトドアにはとっても良いけど、ドライブデートという柄の車じゃないよね。まあ、あの人と一緒にお出かけをすること自体に値打ちがあって、その値打ちに車種の違いだなんて遠く及ばないんだから、そこまで贅沢を言うわけにもね。
 ……と思っていると『勝手口前に車を寄せたので、準備して出てきて』とメッセージが入る。
「わ……! これ、どうしたんです?」
 そこに駐まっていたのは黒塗りの高級乗用車。あの人が恭しく左後方のドアを開けて待っていた。
「今朝、スカイがまだ寝ているうちにレンタカーを借りてきたんだ。こういう展開に備えて」
「あなた、バカです? もし私がおうちデートを希望していたら、これ、どうなってたんです?」
「そのときは……スカイに黙ったままこっそり返しに行ってた」
「もう……。私のこと好きすぎません? 嬉しいですけど」
 私は開けてくれたドアからは乗り込まず、上目を使って助手席のドアを指差す。それ以上は何も言わなくてもあの人は後部席のドアを閉めて、改めて助手席のドアを恭しく開けてくれた。そこは常識的には下座だけれど、私にとってはそここそが上座だから。
「それでは参りますか、姫君?」
「よろしく~★」


 車はオーディオからクラシックジャズなんかを奏でつつ、高速道路を降りた後は山道を登っていく。舗装状態もそれほど良くないところを走っているのに、車内の揺れは思った以上に少なく、さすがに高級乗用車だなと思う。
 あの人が連れてきてくれたのは百名山とかそういうのとは縁がないであろう名もなき山。高圧電線の鉄塔や森林を保安するための簡易舗装された道があって、そこを走っていったところにある中腹。資材置場と詰所を兼ねているらしい二階建てのプレハブ小屋があってその付近が車を駐めておけるコンクリート舗装のフラットで、その広場を取り囲むようにちょっとした芝のエリアがあって、さらにその外縁に大規模ではないけれどツツジが群生していて、華やかに風と戯れていた。
「……すごい。よくこんな場所を知ってますね?」
「林野庁でそこそこ偉い立場の人が学生時代の後輩でね。……ここ、国有地だから原則として関係者以外立入禁止なんだけど、そのへんの縁故もあってちゃんと許可ももらってる」
 風が暖かく心地よくて、空は青くて花は鮮やかで、私はちょっと目をこする。それを見たあの人は車に戻って……手にレジャーシートとブランケットを持って戻ってきた。広げたシートの上に座ったあの人は、ちょっと恥ずかしそうに自分の腿を叩く。私は誘われるようにシートに上がり込んで、そこに頭を乗せた。すかさず頭がふわりと撫でられて、ブランケットがふぁさっと広げられて……すぅ……。

「おはようスカイ。さすがにそろそろ帰ろうか?」
 暖かかった風が冷えてきた。太陽も低くなっていた。
「いま、何時ですか?」
「四時半だね」
「えぇっ。ここで私、三時間半も寝てたんですか? なんで起こさなかったんですか」
「いや……ごめん。あまりにも幸せそうに寝てたから……」
「もったいない時間の使い方をした……」
 頭を上げてしょぼくれていると、あの人が立ち上がろうとして……体勢を崩した。
「だ、だいじょうぶ?」
「ちょっと……スカイが頭を乗せていた腿が……ね?」
「じゃあ、つっつかれたらクリティカル?」
「そういうことに……あ、こら、やめ……」
 でも五分もしたら痺れが取れてきたようで。手早く敷物掛物を折りたたむと、私たちは車に乗り込んだ。
 高速道路が渋滞して、店の最寄りの次の駅に併設のレンタカー営業所に車を返却できたのは夜の八時前。その営業所にうちの車を置いてあったみたいで、引き換えて乗る。ディーゼルエンジンの振動が伝わる薄い板のような座席に座ると、先ほどの高級車との格の違いは明確だった。
「でも、これはこれで身の丈に合ってて……」
「なにか言った?」
「何も言ってませーん」
「もう時間も時間だし、どこかで晩メシ食べて帰るか?」
「いや、ケーキだけはどこかで買って、あとはおうちで何か作ってくださいよ。簡単なものでいいから」
「え、今から?」
「なにを言ってるんですかあなた。誕生日を迎えた私の命令を、きょう一日なんでもかなえるって言ってたじゃん」
「まぁ、言ったけどさ……」
「それに……」
「うん?」
「きょう限定の話ではなくて、私の心のみならず胃袋までがっちりと掴んじゃった責任は、ちゃんと一生をかけて取ってもらわないと……ね?」
「あはは……その責任が晩メシ作り程度で取れるなら、軽いモノかな?」
「責任の大半は、『あなたが私の傍にいてくれる』ことで取れてますから」
「……スカイって、そんな追込みができる子じゃなかったはずだけどな……?」
「ふっふっふ、青雲の志、見せてあげようじゃないかー!」
 あなたのおかげで、きっとこれからも暖かくて穏やかな日。
 明日もまた、青雲の空、翳りなし……っ!


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