#0016 『今年の疲れ、今年のうちに』 誰も聴いていないオーディオコンポが紅白歌合戦を始めていた。 流し台に両手をついて、肩を落として項垂れて、大きなため息をついているあの人に、私は声をかける。 「終わった?」 返事は言葉ではなく、ジェスチャーで。頭が小さく縦に動いた。 「一昼夜ぶっ続けでお疲れさまでした。……お蕎麦のおだし作ってみたけど、ちょっと味を見てくれますか?」 「……ごめん、ちょっと休憩したい。もう一歩も動きたくない」 「じゃあ、ちょっと小皿に取って持ってくるから」 「うん、頼む……」 作業台に掴まったまま伝い歩きで折りたたみ椅子に座り込んだあの人。本当にお疲れさま。 今年から、試験的におせちのお重を販売してみることにしていた。十一月の頭の週に常連さん達にその企画を話して、こんな感じのものを詰めて売りますよって昆布巻きと栗きんとんを試食してもらって……いま考えるとあれが良くなかったのかもしれない。そもそもそのおせちを作るのが調理師と栄養士のダブル免許持ちでこれまでにヒトミミもウマミミも含めて何十人もの舌を唸らせてきていたあの人だということを、そのことをあまりにも当たり前にしていた私は計算式に含めるべき事項だという認識がなかったし、あの人はあの人でそういうところは奥ゆかしいから自分の料理がどの程度の価値を持つものか正当な評価を下していなかった。そして『自分の家で食べる分を作るついでだから』と、材料費ときりの良い数字になるまでの差額を上乗せした程度は手間賃にしようという、市価の半額を大きく割り込む額に設定したのも拍車をかけて。手作りで用意することを考えるだけでも気が重くなるおせち料理が、材料費相当額程度の安いコストで手作りの完成品が買える上に、その味は折り紙付きだとしたら、それを買わないという選択肢を誰が選べるだろう? 実際にそんな人は稀だった。蓋を開けてみたら気が遠くなる量の受注が来ていた。その結果……あの人は昨日の未明から今まで、一睡もせずに厨房に立ち続けている。そして年末で縮小営業とはしたものの店も開けていたので、もう今日のモーニングから先、あの人はもう気力だけで動いてる。そしてそれだけのコストを払っても、おせち一個が売れたことで得られる純利益は、うちでホットコーヒー一杯を注文するにも足りない額でしかない。……本当に、これは失敗したなぁ……。 食器棚から小皿を出しておだしを取って、それを持っていこうとしてふと立ち止まる。さっき確認はしたけれど、本当にこれでいいか、自分でももう一度確認しておかないと。 すすっと唇の奥におだしを流し込んで目を閉じて味を感じる。 「……うん、大丈夫!」 私が啜って減った分のおだしを追加して、店の厨房に向かう。あの人は天井を仰ぐようにぐったりと座り込んでいた。あの少し開いた口から魂が抜けかけているかもしれない。 「本当にお疲れさま。おだし取ってきたよ。味見……本当にいい? 疲れているのに、ごめんなさい」 あの人は小皿を左手に取って、鼻を近づけた。小さく頷いて、小皿の端を唇に寄せて傾けて。 「……いいな、これ。うん……すごく、すごい……」 「ボキャブラリがどっか行ってますね? おいしいですか?」 「おいしい……やさしい味がする」 目尻を緩ませて、小さく何度も頷いて。もう疲れ切っていて蘊蓄の披露すらできないみたい。 「あなたに『おいしい』って言われると嬉しいな。へへ……私も最終確認で味見したけど、これなら大丈夫って……あッ!」 私は『あること』に気づいた。 「あなたに味見を持ってくるとき、そのお皿洗ってない!」 ふにゃってなった表情のまま、ゆっくりとこちらを見上げてくるあの人。 「ごめんなさい、狙ったわけでなくて、間接キスになってしまいました」 「……ッ!」 あの人がビクッと痙攣して口を押さえた。見ているうちに顔が赤くなっていく。 「ご、ごめん、スカイ……」 「……え、いや、悪かったの私ですし? っていうか、そんな過剰に反応しないでください! っていうか、私のほくろの場所と数を全部把握してるようなあなたが、なんで間接キスくらいでそんなに動揺しているんですか!」 「あ……うぅぅ……」 どうしようもないくらいにあの人が狼狽していた。視線を忙しく彷徨わせて私を直視してくれない。 「あれあれ? セイちゃんとの間接キス程度で動揺してるんだ、ウブですねぇ?」 「相手が……スカイだから……」 「ミッ!」 「……」 「……ま、まぁお仕事頑張ってくれましたし? 今日はこのくらいにしといたりますよ?」 「……うん……ごめん、ありがと……」 「お疲れが過ぎて、全部メッキが剥げてません? ……まだ年が変わるまでには少し時間がありますし、少し寝ましょ? 今年の疲れは今年のうちに、ね?」 「でも……お蕎麦……」 「起きてから食べましょ? もう注文のおせち、折詰めまで終わってるんでしょ? あなたがそんな疲れた顔で新年を迎えるのは、私があまり嬉しくないから……ね?」 「もう二階まで上がるのもしんどい……せめて下のお茶の間で……」 「だめです。ちゃんとベッドで寝ましょ? なんなら私が連れて行くから」 私は椅子に座り込んでいるあの人の身体に腕を差し入れて抱き上げる。 「……はじめてだな」 「何がです?」 「スカイをお姫様だっこ『した』ことは何度かあるけど、お姫様抱っこ『された』のは……」 「イヤでした?」 「……女性がこれ好きなのが、ちょっとだけ理解できる気がする」 「スカイ? そろそろ起きて。もう新年まで三十分だぞ」 「……あ、あれ? 私、寝てました?」 「ぐっすりとな。……ありがとな。ベッドで寝かせてくれたおかげで、四時間ほどだけどかなり回復できたよ」 あの人は私の前髪を掻き上げて、額に唇を寄せてくれた。 一昼夜厨房でずっと働いていたということは、一昼夜身体を清めていなかったということで。濃い麻薬が私の思考を蝕んでいく。 「ねぇ、ちょっとお願いがあるんですけど……」 「うん? 改まってどうした?」 「あー……。その、何を言っているんだと思っても、笑わないでくださいね?」 「うん」 「せっかくその、いいタイミングですし……つ、繋がったまま新年を迎えてみたいなあ……なんて!」 「……は?」 「……やっぱり、そうなりますよね。年甲斐もないって思いますよね……?」 「ホントに、唐突に年甲斐もないことを言うなあって思ったよ?」 あの人は少し困ったような笑顔を浮かべながら……私の襟元から手を差し込んで、鎖骨の上を……。 「あ……あれっ? もしかしてもう……始まってます?」 「さて、どうかなあ?」 「い、いじわるっ!」 |