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#0015 『家に刃向かい、血にあらがって』 「よく降るし、よく吹くなぁ……」 「ですね……」 旅館の窓は雨で滲み、外の様子はよく見えない。 久しぶりにあの人と泊まりがけでお出かけができるだなんて年甲斐もなく夢見たせいか、今日はずっと宿の部屋に閉じ込められそうで。 「まあ、さすがにお天気はどうしようもないですし、今日はもう諦めて、お部屋でまったりと過ごしましょうよ?」 私は湯呑みをふたつ卓袱台に立てて、急須のお茶をたぱたぱと注ぐ。こちらの銘菓らしいお菓子がとてもおいしくて、旅館の帳場で早速購入したそれを開けて、私の隣の是布団に座るように促した。 本当は私も残念。お天気がここまで荒れていなければ、今頃は釣船で沖に出て大物を狙うはずで。情報では四十センチ超が釣れるとのことでその釣果も気になるけど、引きがとても強くて魚との駆け引きがエキサイトすると書いてあったから、楽しみにしていたけれど。悪天候で船を欠航するという連絡を受けてしまってはどうにもならない。 「まだ明日、狙えるじゃないですか。お店は明後日までお休みなんですし。……それとも、このセイちゃんと何もせずに一部屋にいるのが恥ずかしいんですか?」 「そんなわけない……ことはないな。うん、結構恥ずかしいというか、緊張するというか……」 「ちょっ、そこで照れないでくださいよ。私まで恥ずかしくなるじゃないですか!」 二人ともまだまだ結婚生活初心者マークのせいで、最初のうちは隣り合って座っているのに顔の向きが微妙にずれていて、恥じらって。 でも、気を紛らわせるためにテレビの電源を入れてみると、この宿は有線放送を引いているみたいで、レース中継チャンネルがあって。 「惜しかったな、今のレースの七番の子。先頭を一瞬でも明け渡したくないって思ったか、ちょっと中盤でムキになりすぎたな」 「三番の子の末脚も凄かったですねえ」 気がついたらレースを見て、二人でそんな意見交換なんかをしていて。やっぱり、元トレーナーと元ステイヤーだねって笑ったりして。 お昼ごはんは宿の仲居さんが気を利かせてくれて、簡単なものしかお出しできませんがと言いながらも、とろろ昆布で巻いたおにぎりと玉子焼きと、温かいお味噌汁と香の物を小鉢に盛って持ってきてくれて、お互いに肩を寄せ合ってちょっとイチャイチャしているのを目撃されて気恥ずかしくなったり。 「……そういえば今日の小倉第八レース、スペちゃんの親戚の子のデビュー戦って言ってましたね」 「小倉の第八レースというと……いまパドックが映っているこれじゃないのか? スペシャルウイークの親戚か。どの子だ?」 「あ、今映ってるこの子ですよ。こんな名前だった」 「ちょっと緊張が強いかな、顔が若干引きつってる」 「でもこの脚、良くないです?」 「ああ、余計な脂肪もないし筋肉も適正量だと思う。食事も理想通りで、しっかりトレーニングを積んできたんだろうな」 「あのスペちゃんの親戚なのに、食をコントロールできたんですねぇ」 「こら。確かにスペシャルウイークはよく食う子だったが、その分ちゃんとトレーニングは頑張ってたじゃないか、誰かさんのようにサボることもなく」 「今頃お説教は禁止、禁止でーす!」 やがて別のレース場からの中継実況が入り、いよいよその子が走るレース。 「うわ……すごっ……!」 「うん、あのスパートは驚異的だな。これは行けるぞ」 「……残り四百から一気に伸びましたね。結局七バ身差で勝利……すごい」 「仕掛けるタイミングもいいな。それに序盤中盤でも先行を上手に煽って先行のスタミナを削っていたし、先行を焦らせることでその前を行く逃げのスタミナも間接的に削っていた。……これでデビュー戦か。恐れ入った」 あの人も湯呑みを持ったまま画面に釘付けで。 「まぁスペちゃんの親戚ですもんね。日本総大将の血統は伊達じゃない。そこいくと私なんかホントにもうどうしようもなくて……えっ?」 不意を討たれたこともあるけれど、私の背中は畳に着いていた。あの人に押し倒されたと気づくまでに時間は不要だった。 電灯の光を隠すように天井の方角にあの人の顔があって、その顔は怒っていた。 「スカイ」 「はっ……はい?」 「二度と言うな」 「……な、なにを?」 「血統とか、家柄とか。……そんなもんが優れているとか劣っているなんてことは、俺の前でもそうでなくても、二度と言うな」 不意に私の頬を何かが打つ。 「……泣いて……ます?」 「泣いてるよ」 「ごめんなさい」 「謝罪は求めていない」 「ごめんなさい」 「だから、謝るな。約束してくれ」 「……はい」 「よっ……と」 あの人は私に上半身をぐっと近づけてきて、私の背中に右腕を差し込むと、私の上体を優しく起こしてくれた。 「そりゃあ、俺だって知ってるよ。あの子の血統が世間一般の論調からすれば『いい』ことくらい。そして今日のレースを見て、多くの人が『さすがスペシャルウイークの血筋だ、凄い走りだ』って言うだろう」 「……はい」 「でも、血統や家柄だけがあっても走れないんだよ。あの子は頑張ってトレーニングを積んで、そして結果としてあのレースで勝った。勝てなかった子達だってそうだ。誰も負けるためになんか走っていない。この日のために、この日のためだけに頑張って、たとえ分が悪かろうがそれでも勝とうとレースに出ているんだ」 「……はい」 「それを血筋や家柄がいいから勝った、悪いから負けたなんて言うのは失礼どころの話じゃあない、レースで走った全員に対する冒涜だ」 「……はい」 「たとえばスカイ、お前は皐月も菊も獲った。でももしそのインタビューで『私は血統も家柄も劣っていますが勝ちました』なんて発言していたら、俺はそこに割り込んでお茶の間の見ているところで契約解除を突きつけていたぞ」 「ひっ……」 「たとえばキングヘイロー。彼女は良い血統の子だよ。でも皐月もダービーも菊も獲れなかった。だけど彼女は本当に懸命に、文字通り泥と血と汗にまみれながら過酷なトレーニングを泣き言のひとつすら吐かずに積んでいた。そしてその上でスカイに勝てなかった。そこでスカイが軽率にもそういうことを勝利会見で言っていたとしたら、それはキングヘイローが積み重ねてきた努力の冒涜であって、そしてそれはキングヘイローというウマ娘そのものに対する完全否定だ。もちろん、寸分違わぬ資質でレースに挑んで、最後の最後に血や家の差で勝てるということは、あるいはあるかもしれない。でも、そういう偶然はそれこそ天文学的に少ない。つまり血や家なんか本人の努力の前には無視してもいいレベルの話でしかないんだ。だから、他人の努力の結晶に、そんなちゃちな物差しを宛がわないでほしいんだ」 「はい……」 「ん、わかればよろしい。俺のほうこそごめんな。急に怒って」 「いいんですよ。あなたは何も間違ったことを言っていないって、少なくとも私は思いますから」 「俺があのときスカイを担当することを決意したのは、つまり、そういうことだよ。血統とか家柄とか、そんなことで篩い分けするなんてナンセンスだと思って。俺を選んだ理由が御しやすそうだからであったとしても、俺を慕ってくれたスカイを裏切るなんてできなくて、だからこそ君を担当したんだ。……血統やら家柄とかいうものを神聖視する世間に対するレジスタンスという側面がそこにあったことは否定できないけどな。雑草魂なめるんじゃねぇ、っていう」 「ありがとうございます。嬉しいです……」 「それと」 「はい?」 「こうしてスカイと夫婦になったのも、だいたい同じ理由だ」 「うぅ……。それについては私、あなたに猛抗議したいです」 「うん?」 「判断があまりにも遅すぎる、って」 「あぁ……それは本当に申し訳なかった。これからどこまで取り戻せるかわからないが、精一杯務めさせてもらう」 私を包む温かさから、おひさまの匂いがした。 |