#0014 『トレーナーさんは差してくる』


 屋上には先客がいた。
 スーツが汚れることもいとわずに、コンクリートの床に寝転がって、組んだ腕を枕にしてぼんやりと空を見上げていて。
 避けていたのに、避けていたくせに、不意にトレーナーさんの姿を見ることができたのが嬉しくて、私はひょこひょこと近づいていった。
「おサボりですか、トレーナーさん?」
「サボりかなあ。……もっとも、仮に仕事したくて堪らなくなっても、あいにく俺の仕事は、俺一人でできる仕事じゃないからなあ」
「すみませんねえ、誰かさんのやる気が行方不明になっちゃったせいで」
 トレーナーさんの横に座る。トレーナーさんが自分の横をポンポンと叩く。私はトレーナーさんの横にごろんと横になる。
「いい天気だなあ」
「いい天気ですねえ」
「……なあ、セイウンスカイさんや」
「はい? お説教ですか?」
「いや、ちょっと質問したいことが、ふたつほど」
「いいでしょう、とりあえず聞きましょう。ただし答えるとは限りませんよ?」
「ひとつめ。……まだ、走るのはつまらないか?」
「やはりそういう系統の質問ですか?」
「最終確認だよ。もう尽未来際この質問はしないから安心してくれ」
「未来のことはわかりませんけど、少なくとも今は、もう走りたくないかなあ」
「そうか、わかった。……そうかぁ……」
「ふたつめは、なんですか?」
 最初の質問は、決して前向きな期待を持ったものではなかったけれど、それでも私の回答に一縷の望みが托されていたのか、トレーナーさんが感想を述べた声には張りがなくて、それが胸にズキンと響いて、私は堪らずに次の質問を急かした。
「スカイはさ……西と北なら、どっちが好きかな?」
「……はい?」
 質問の意図が掴めなかった。
「どういう意味ですか?」
「……この学校では、歓迎されない生徒の種類がふたつあると思う。そもそも走る才能がない生徒。それに輪をかけて歓迎されないのは、走る才能はあるのにそれを活かさない生徒だ」
「……結局はお説教ですか? もうお腹いっぱいなんですけど……」
「まあ、とりあえず聞いてくれ。それを説教と取るか違うと取るかは、それから判断してくれ」
「……いいでしょう。続けてくださいな」
「歓迎されない生徒がここにいてはならないという明確な校則があるわけではないが、それでも大きな顔をして校内を歩くことはできない。アグネスタキオンなんかは自分の研究に没頭した挙句、模擬レースに形式的にでも参加してればまだしも、それすら拒否をした結果、退学勧奨まで出されたくらいだ。……まァあそこは万事に対して有能な『モルモット君』の登場で事なきを得たけどさ。……そして実際に今の時点でも、スカイは息が詰まりつつあるんじゃないかな。針の筵に座らされているだろう。……おそらくここ最近、親友であるキングヘイローやグラスワンダーたちの視界に入ることすら避けながらのキャンパスライフだろ?」
「……そうかもしれませんねえ。うひゃぁトレーナーさんは怖い怖い。見てもないのに、まるで見てきたようなことを言うんだから」
「そしてそれは、生徒だけが負っていることじゃ、ないんだよな」
「え?」
「トレーナーもだ。なまじクラシックG1をふたつも獲らせた上で教えている娘がそういうことになっていれば、有名税ってやつでやっかみが上乗せされる分、尚更にトレーナーが食らう圧は、なかなか楽しいぞ? ……それは生徒であるスカイも似たようなもんだと思うが」
「へ、へぇー……。それは大変ですねえ」
「形だけでもスカイがやる気を見せている、スランプに陥って懸命に藻掻いているというポーズだけでもしてくれていれば、情状酌量の余地があるから手加減するかってここまでキツくはならないんだろうけど……ああいや、スカイを責めるつもりじゃないことは理解してくれ、俺だってスカイがやりたくないということは強いたくないのに、それに対して説教をするなんざ輪をかけてやりたくない。でも、いわゆるオトナの汚い舞台裏に神経をすり減らすこの生活が、俺にとってもそれなりにキツいことは、ちょっとだけ吐かせてくれ。それも今はまだ、俺がトレーナーとしてへっぽこなせいで有能なウマ娘を潰しているという体裁を保てているが、俺が外圧からの爆撃で完全に無力化したからと云って、それで攻撃は止まらない。今でも流れ弾が当たっているスカイが一身にその攻撃を全部食らうことに切り替わるだろう。本土爆撃の開始さ」
「……」
「で、包み隠さずに言うなら、もう俺は限界かなあと思ってる。攻撃者ってのは、被弾している側が苦悶しているから攻撃してくるわけであって、受ける側がそれに何ら痛痒を感じなくてもやめたりしない、対象を変えるだけだ。まぁ、俺がいつまででも、少なくともスカイが卒業するときまででも、受ける攻撃に痛がるフリをし続けられればいいんだが、今からどれだけ籠城戦に持ち込んでも、いいとこ一ヶ月かなあ。……そもそも、俺には他人様に物事を教えるということ自体に適性がなかったんだろうな。確かに今になって考えるまでもなく、師というタマじゃねぇよなあ俺。……だからこんなもんを書いたし、もう玉砕するからこれ以上守ってやれないということは早晩伝えなきゃならないなと思っていた。だから、今日ここでスカイに会えたのは本当に良かったよ」
 胸ポケットから無造作に取り出された、トレセン学園のリターンアドレスが印刷された茶封筒。
「……私からも一応確認なんですけど、それ……」
「退職届」
「なんてものを書いてるんですか!」
 ひったくろうとした私の腕は読まれていたのか難なく躱されて、虚空を切った。
「スカイが自分の去就のことを自分一人で決めたように、俺も自分の去就くらい自分一人で決めるよ」
「自分の将来をネタに、私を脅すんですか?」
「脅し? なんでそんなことを? ……さっきも言ったように、俺は師というタマになるべきじゃなかったということを現実から教わったまでさ。スカイがこれで立ち直るかどうかなんて打算だけで、なんでこんなに思い悩まなきゃならない? ……話を戻すけど、質問の答えはどうだい?」
「……西と北でしたっけ。東と南はないんですか?」
「ないな」
「即答しましたね。どうしてか理由を訊きたくなりました」
「東京。地図で見てみな? この地がいわばこの国の東と南の最果て。ここから東にも南にも逃げる場所はない。……まぁ南は小笠原の父島までは行けるだろうが、そしてあそこは確かに遠いが、もしそこに追っ手が来たらもう逃げ場がない。逃げる場所としてはいささか不都合だ」
「はい? えっと、何を言っているんです? あまり健康的ではないことを言っているというのだけは伝わるんですが……」
「この紙切れを出せば、そりゃ書類上はトレセン関係者じゃなくなるさ。でもこの近くにいる限り、実質的には誰もそう見てくれない。なら『セイウンスカイの元トレーナー』という肩書きを隠せるような、そんな遠いところに逃げるしかないなって。だから西か、北か」
「ちょ……えっ……そんな……私を置いて逃げるんですか……?」
「……ああ、そうか、その発想はなかったなあ。なるほど、それもいいかもしれないなあ……」
「えっ?」
「なあスカイ、一緒に逃げようか。人並みの暮らしは保証してやれないけど、なんとか食っていくくらいはできるだろ」
「一緒に?」
「情けないことに俺のほうが先だったけど、このままでは早晩スカイも壊れてしまう。壊れる前に、壊れたトレーナーが壊れかけた教え子を攫ってどこかへ逃げてしまうというのも、……世間から何を言われるかわかったもんじゃないかなり背徳的なシナリオだが、世間体をかなぐり捨ててしまえば、別に悪い話ではないなあ。逃げるにしたって、一人と二人では、できることも倍じゃ利かないくらい広がりが出てくる。一人ではできなかったことが、二人で協力して役割を分担すれば楽勝でできるってことがいくらでもある。二人じゃ文殊の知恵にはまだ一人足りないが、それでもあらゆる可能性が二倍どころか五倍、下手すれば十倍まで広がるからな。昔から『一人口は食えぬが二人口なら食える』とも云うし、……うん、面白いことになる気がするよ」
「ちょ……ちょっと、考えさせてください。今いきなりそんなカードを見せられたからって、すぐにそんなこと決断できませんって……」


「おはようございますトレーナーさん」
「おはようスカイ。……いい顔つきに戻ったな」
 翌日、午前六時のトレーナー室。万全の格好で向かった私を、いつ淹れたものなのかわからない、すっかり濁って冷たくなってしまったホットコーヒーをじっと見つめていたトレーナーさんは、一瞬でいつもの穏やかさに戻って迎えてくれた。
「にゃはは……もうちょっと、セイちゃん頑張ってみようかなって。まだ腐るには早過ぎるかなーって」
「そうか、よかった……。これで思い残すことがなくなったよ。スカイをいつまでも遠くから見守っているからさ、これから、頑張れよ?」
「寝言は寝てから言いましょうよ。トレーナーさん以外の、誰がセイちゃんの面倒を見るんです?」
「ん?」
「こんなウマ娘の面倒を見られるトレーナーなんてトレーナーさんくらいしかいませんよ。ほらほら、トレーニング行きましょう?」
「えー、今日にでもあの届を提出すれば来月の頭ぐらいには自由の身だなって思ってたのに、スカイはまだ俺をこき使うの? ……やるからには手加減しないぞ? これまでの遅れもあるしな。中途半端な逃げは絶対に赦さないぞ?」
 ふわふわとした声が、急に凜々しくなった。瞳に闘志が、空気に覇気が。ここにいるのは、確かに私の尊敬するトレーナーさんだ。
「いやー、今回はまんまとトレーナーさんの策に填められちゃいましたね。ちょっと悔しいけど、我慢してあげます」
 自分の胸にうまく表現できない熱いものが宿るのを感じながら、それでも虚勢を張ってみる。
「そんな手の込んだ演出なんか俺の頭で考えられるわけないだろ。第一そんなリスクしかない作戦、失敗したらどうすんだ。スカイ、ちゃんと起きてるんなら寝言をほざくんじゃない。……やるトレーニングは山ほどあるが、まずは坂路だ行くぞ?」
 ふわりと撫でられた耳を手で覆う。とても冷たい手。この人も私と同じように、なにか熱いものが胸に宿っているのかな……。
「でもセイちゃんも、トレーナーさんと一緒にどこかに逃げるのは、ちょっと魅力的な提案に感じましたよ?」
 でももう少し。もう少しだけ、セイちゃん頑張りますからね。
 だから、ちゃんと見ていてくださいね、私のトレーナーさん!


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