#0009 『引退後も変幻自在なトリックスターズ』


「おじいちゃん、なにを読んでいるの?」
 眉間に皺を寄せながら手紙を読んでいた彼は、ふと我に返って振り返った。クレヨンで描かれた似顔絵らしき紙を誇らしげに持って来た孫が、不安そうに見上げている。
「おじいちゃんの古いお友達からのお手紙だよ。……その絵はもしかして、私とおばあちゃんを描いてくれたのか?」
「うん! 二人にあげる!」
「おお、そうかそうか。ありがとうなあ」
 頭を撫でてやれば破顔して、嬉しそうに廊下へと駆けていく孫娘を見て、改めて手紙を見返して溜息をついた。
「俺らも歳を取ったなぁ……。おじいちゃんおばあちゃん、か」
「なにを今更」
 幾ばくかの苦労を顔に刻んだ気品のあるウマ娘が、ボーンチャイナの白磁器のコーヒーを差し出す。
「それより、その手紙、なにが書いてあったのかしら?」
「ん……読んでみるか?」
 無造作に紙を妻に差し出し、コーヒーを啜る。
「……そう。定年退職……」
「もう俺らもそういう歳なんだなって、少し感傷的になった」
「あの人、ずっとトレーナー寮暮らしだったのね」
「独身だからな。……元々、メンツだの虚栄だのというものとは縁遠いやつだったから、そんなもののために、問題なく住める寮を出てわざわざ学外に家やマンションを借りたり買ったりという必要性を微塵も感じていなかったんだろう」
「それにしても……三十六年を棒に振って、あの人……」
「……俺らの価値観を押しつけるのは良いことではないが、それにしても……だな」
「あの人だけの三十六年なら私もなにも言う気はないけれど……」
「それも含めて、それがあの二人の決断だった以上、俺らはそれに意見をすることはできないな……」
「意見はできないけれど、感想くらい述べても良いのではなくて?」
「気持ちはわからなくもないが、それを言ってなにになる?」
「……そうね。精々が私達の鬱憤晴らしでしかないわね……」



「はい、もしもし?」
『ご無沙汰して申し訳ない。俺だ』
「なんだ急に、電話なんか」
『いや……うん、前みたいに手紙にしても良かったのかもしれないが、なるべく早く知らせた方がいい気がして電話をさせてもらった。……いま、少し話せるかな?』
「はは……俺らももう老後の世界だ、時間だけは余ってる」
『そうか……そうだな』
「で、その知らせっていうのはなんだ?」
『えーっと……その……なんだ、うん……』
「歯切れが悪いな」
『あいや、申し訳ない……えっと……』
「時間だけは余っているとは言ったが、無駄にはしたくないんだぞ?」
『そうか……そうだな。悪い、五秒だけ深呼吸の時間をくれ』
「……五秒経ったぞ、時間だ」
『じゃあ単刀直入に言う。俺……結婚するんだ』
「……は?」
『だから、結婚すると言った』
「申し訳ない。その単語をお前から聞くのは、あまりにも想定外が過ぎたんだ。いや、驚いた」
『そうだな、俺自身、こんな単語を吐くとは少し前まで夢にも思っていなかったくらいだからな』
「だが、相手は誰だ? これまた申し訳ないが、マッチングアプリかなんかで老年独身男を引っかけるヘンな女に騙されている、なんて可能性も考えられるだけに、まだ手放しで喜べん」
『ヘンな女なんかじゃない! ……ああいや、ちょっとヘンな女かもしれない。いや、かなりヘンな女かも……』
「……誰なんだ?」
『お前も多少知っていると思う。なんなら、お前の奥さんはもっと彼女を知っていると思う』
「……というと?」
『そうだな、こんなところでクイズをしていても話が始まらんから答を言う。その相手というのはセイウンスカイだ』
「……は?」
『だから、セイウンスカイ』
「……え?」
『セイウンスカイだっつってんだろ! もう言わんぞ! その耳かっぽじってよく聞きやがれ!』
「いや待て待て待て、お前もしかして気でも触れたか? 大体、いつお前があの娘と再接触したんだ?
」 『……えっと、もしもし? キングの元トレーナーさんにして現旦那さん? 私、その渦中のセイウンスカイです』
「……は?」
『ついさっきなんですけど……私、この人に求婚されました。ホテルグランドゴーイスの最上階ラウンジで。いや、再会したときにプロポーズはされていたからもういいって言ったんですけど、こういうのは儀礼的にちゃんとしなきゃいけないからってあの人が頑として譲らなくて……』
「え? ……は?」
『それで……改めて、正式に、お話をお受けしました』
「……」
『私達、結婚します』
「……」
『それで、正式に婚姻届を出して入籍する前に、お互いに親しくして貰っていた同期とかには、やっぱり少しでも早く伝えたくて……』
「……」
『もしもし? もしもーし?』



『もしもし? グラスちゃん?』
「セイちゃん? あなたの声を聞くのも随分と久しいですね。そしてあなたから電話を掛けてくるなんて珍しい。明日は雨でも降るのでしょうか?」
『いやー……不義理ばっかりで本当に申し訳ない。でも私も久しぶりにグラスちゃんの声を聞けて、なんか嬉しいよ』
「あらあら? 今日のセイちゃんはやけに素直ですね」
『実はね……グラスちゃんにどうしても伝えたいことがあって。それで電話したんだ』
「伝えたいこと? なんでしょうか? 少なくともここしばらく、あなたから実害を受けるようなことはありませんでしたが……?」
『私さ……結婚しようと思う』
「……えっ?」
『結婚しようと思ってる』
「……ちょっと、誰と? えっ、どういうことでしょうか? セイちゃん?」
『ホントだよ。セイウンスカイ五十四歳、ついに私にも心の隙間を埋めてくれる男性が現れました』
「それはダメです。今のあなたにつけ込んでくる男なんて、碌なものではありませんから!」
『そう……かなぁ?』
「そうです! あなたはずっと燻り続けて、苦しんで、でもやっと今のお店を開いて十二年続いて、ようやく少しくらいは人並みの生活が戻ってきたところなんです。あなたの長年の苦しみがどれほどのものだったか、それを誰よりも知っているのはセイちゃん、あなただけでしょう? 今あなたに言い寄ってきている男は、ようやくあなたが手にすることができるようになってきた、そのささやかな幸せすら根こそぎ奪っていこうとしている結婚詐欺師以外の何者でもありませんよ! 目を覚ましなさい!」
『グラスちゃんひどい。私が、やっと見つけた、幸せの青い鳥を、そんなに……』
「セイちゃん、今どちらですか? 今からすぐに参りますから! 早まった決断をしないで!」
『ホテルグランドゴーイスのスイートルーム……一六〇一号室……』
「その男と一緒なのですね? ちょっと電話に出しなさい!」
『……もしもし、電話替わりました。……はは、酷い言われようだったね。でもまあ碌な男じゃないのは確かだと思うよ』
「……えっ? その声、あなたはまさか……?」
『そのまさかかどうかはわからないけれど、彼女の現役時代に彼女の横にいた男です』
「えっ……ええっ?」
『……リクエストにお応えして電話に出したよ。もー、昔から言ってるじゃん。私はトレーナーさん以外の人と結婚しないって!』
「……実はですね、最近、新しい得物を手に入れまして、少し試してみたいと思っていたところなので。ちょうど良い機会ですので、ご婚約のお祝いとして、稚拙ですが長刀の演武をお見せしますわね……」(ぶつっ)


「……だからやめとけって言っただろう? スカイ、現役のときに口癖のように言ってたじゃないか。『グラスちゃんを怒らせてはいけない』ってさぁ」
「私、……調子に乗りすぎたかな……?」
「なんとか俺が説得するが、いざとなったら俺が斬られてる間に逃げろ」


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