#0008 『青空に晒された幸福』 (「これが私の毎日のつまらない日常」の夫視点) 目を覚ますと朝の三時の少し前という時刻だった。そういえば午前三時は『夜の』三時か『朝の』三時かで議論を交わしたことがあった。何故か朝派の仲間は予想以上に少なく、その議論では数の暴力で負けたっけ。でも俺はそれでも頑なに『朝の三時』を使い続ける。なぜなら。 隣に横たわる影を見る。俺のシャツの裾を軽く摘まんだまま無防備に薄く微笑んで、規則的にすうすうと寝息を立てている俺ではない別の影。薄暗い光の中、手でそっとその前髪を上げて額を晒し、そこにそっと唇を添える。 「お前も朝派の仲間だもんな、スカイ」 「ん……むぅ……」 可愛い寝言を口の中でもごもご言いながら、まだ心地よい夢の中にいる妻を見ていると気持ちが穏やかになる。いつまででもこうして過ごしていたいが、そうもいかない浮世だ。名残惜しいがそっと身体を離し、ベッドから出る。なつめ球の灯りの下、あらかじめ用意しておいた替えの衣服を着て、そっと足音を殺して階下に降りる。 二時頃に来るトラックが降ろしてくれた食材を検品して厨房に入れる。今日も過不足はないし、納品された食材に瑕疵はない。在庫を管理する厨房のタブレットに納められた品の登録をすると、冷凍庫から氷を一掬い持ち出して手洗場に行き、蛇口をひねって溜めた水道水にその氷を投じる。二分ほどの時間を待ち、その冷水に手を入れ掬って顔を洗う。ヒヤッとする感覚で完全に目を覚ますためのおまじないのようなものだ。歯を磨き髭を剃り、肘の下まで手を念入りに洗うと、厨房に取って返して冷蔵庫から野菜と鶏卵、冷凍室から鶏の胸肉とむきエビのボイルを出す。今日のモーニングプレートに使う食材だ。むきエビを使ってほのかにピラフにし、玉子と鶏は綴じてピラフの餡にする。野菜は適当にカットしてサラダにする。ここに紅茶かコーヒーを添えればそれなりの格好がつくという計画。むろん適当にトーストを焼き卵は茹でておいてそこに野菜サラダを添えておけば喫茶店のモーニングプレートの格好はつくが、それではどこの喫茶店でも食えるレパートリーになってしまう。確かにそのレパートリーから外れようとすれば手間がかかるが、『サンセット・ムーンライズ』だからこれを食べられる、という付加価値を用意するためのコストがこの程度のものであるならば、俺はそれを惜しみたくない。 鶏胸肉は真空パックのまま水を張った鍋に入れてゆっくりと沸騰させていく。その間に米を研いでバターとオリーブ油で炒め、冷凍のむきエビは臭味を消すために酒に漬ける。野菜はあまり早くからカットすると鮮度が急激に落ちるのでまだ手を着けない。 炒めた米にむきエビを加えてジャーに入れ調味料を振って炊飯を開始、鶏胸肉の鍋は火を切って低温でじっくりと熱を通す。……さて、今度は女神に捧げる食事を用意しなければ。 店の厨房から自宅の厨房に場所を変える。 冷凍の鯖のフィーレを二枚出して酒を振り塩をほんの少し追加する。このメーカーのフィーレが少なくともこの辺の店で買える中ではいちばん旨いのだが、若干塩味が足りない。便利な世の中になったもので、大根おろしは最近では既に下ろしたものがチューブに入って売られている。研いだ米に昆布を入れ、一滴の菜種油を垂らした土鍋を火に掛ける。白菜とシメジを処理して昆布を入れた鍋を火に掛け、シメジもこの時点で入れておく。ある程度煮立ってきたのを確認して白菜を入れ、昆布を取り、味噌を溶き、隠しにごく少量の醤油を落とす。出した昆布はまだ浸み出していない旨味をフル活用するために佃煮にする。鉢に卵を割り入れて味醂を少し垂らして菜箸でかき混ぜる。砂糖でも良いのだが味醂のほうが味に深みが出るから。そしてあまりガチャガチャとかき回さない。どこを取っても均等に白身と黄身が混ざっているのを悪いとは言うわけではなく、粗めにしておくことで白身と黄身のコントラストを設けることで白身のプリッとした食感と黄身の濃い味を残すのが目的だ。そうすると、味醂のようにさっと甘みが広がる方が好都合だ、というのもある。 そうしているうちにガチャガチャと牛乳瓶が擦れる音を交えたバイクのエンジンの排気が聞こえてくる。そろそろ五時。上階の目覚まし時計が鳴る時刻。こちらもそろそろ仕上げにかかるか。鯖のフィーレを焼網に載せる。うっすらと立ち上る青い煙。その横で用意した卵液を焼いていく。 パタパタとスリッパを鳴らす音が近づいてくる。 「おはよう、よく眠れた?」 「おはようあなた、おかげさまで昨晩もぐっすり。……今朝はサバ?」 「エグザクトリー。最初は味噌煮にしようかとも思ったんだけど、味噌煮に味噌汁はさすがにどうかなと思ってね」 私は全然そんなこと気にしないのにな、という表情を見て、そこに座ってろとジェスチャーしてラストスパート。最後に小鉢に茗荷の甘酢漬けを用意し沸かしたばかりのお湯でほうじ茶を淹れる。 それらをちゃぶ台に並べ、時報代わりに点けておいたテレビを切る。本当は知っている。この時間帯に釣りの情報番組があること、それを本当はスカイは見たいのだということを。けれど、折角作った朝食を、いちばん旨い旬の時間に食べてもらいたいという俺のエゴを、スカイは何ひとつの不満も漏らさずに受け入れてくれる。 「さ、召し上がれ」 「いただきまーす」 やはり作ったからには箸が進むかどうかは気になるもので、いつもその食べ始めの箸の動きを注視してしまう。だが今朝も箸の動きに躊躇が生じることはなく、次々に手を着けてくれていることに安堵しつつ、自分の箸を動かし始める。 「ごちそうさまでした、おいしかった……」 「どういたしまして、お粗末様でした」 スカイが箸を置いて手を合わせると、食器は綺麗に片付いている。嬉しい話だ。 この後、店主であるスカイには昨日の売上金を集計して今日の釣銭を準備する作業がある。小額の間違いでも許されない大事な任務。それを邪魔するわけにはいかない。俺は皿や椀を下げ、手早く洗って拭いて片付ける。 難しい顔をして金銭を扱うスカイの邪魔をしないように店の厨房に移動する。残りの仕込みを進めないと。 やがて集計などが終わったらしく、モーニングの後に来る信用金庫の職員に渡す売上金とその伝票、釣銭準備金を入れた封筒を抱えたスカイがフロアに向かう。POSレジに釣銭準備金を、その下の手提げ金庫に売上金を入れて……厨房に戻ってきた。興味津々という瞳。野菜をカットしているだけなんだが、それのどこに興味があるのだろうか。 「スカイ? ずっと見てるけど、フロアの掃除は終わってる?」 「おぉっと、あまりにも鮮やかで、そして艶やかなその所作に見とれたせいで、コロッと忘れてました」 「そうか。こんなもん秘密にするようなことじゃないから望むならいくらでも見せてやるけど、でももう五分は時間を無駄にしてるぞ。少し時間を巻いてよろしく」 「はーい、セイちゃんちょっと本気出しますね」 鮮やかで艶やか、か。世辞としても褒められるのは悪い気分ではない。 仕込みが終わると、店の外を掃除する。 本来はフロアと店外の掃除はスカイの担当だったんだが、そういえばなんで店外の掃除が俺の担当に変わったんだったかな。なにか決定的なイベントがあった気がするが、記憶がない。記憶はないが、暑いにつけ寒いにつけ、雨が降ろうが雪が降ろうが外に出なければ掃除はできないのだから、そんなところのキツい仕事を愛妻に押しつける夫というのもあまり自分の中の夫像としてはそぐわないし、むしろその程度は任されたい。 「よし、今日も頑張ろうねあなた」 「よし、頑張ろうなスカイ」 お互いの右手をパァンと打ち鳴らすハイタッチ。戦闘開始だ。キッチンに引っ込んで気合いを入れていると、声が聞こえてくる。 「おはようございまーす! いらっしゃいませー!」 「おはよう、今日もこの店のオシドリは仲が良さそうだなあ!」 「ふふーん、おかげさまで! なんてったってまだまだ熱々の新婚なので!」 「はいはいごちそうさま! もう朝メシ食わなくても腹一杯だから帰ろうかな!」 「待って待って今のなし! 帰らないでぇ!」 愛嬌を振りまいて接客をするスカイの声を聞いていると、こちらも俄然ファイトが湧いてくる。次々に舞い込んでくるオーダーを無心で捌く。まだ前哨戦だ。ここでキツいとか言っていては昼が保たない。 「あなた、モーニングもう閉めるからね」 オーダーがなりを潜めたので流し台を洗っていると声がかかる。布巾で拭き上げてからフロアに向かうと、信用金庫の職員が来ている。あの支店の次長だとか言っていたように記憶しているが、おそらく俺より五つほど下だろうか。それでも還暦前後のはずで落ち着いていて当然の年齢だが、黙って見ていればあからさまにスカイに色目を使うことがあるのが気に入らない。そいつは俺の女だと怒鳴りたいがそうもいかない。スカイはそれを嫌がっている様子というよりもそもそも気づいている様子がないので、現時点であえて口を出すのは違うと思うが、俺が来る前はもっと露骨なアプローチをしていたのだろうか、ともすれば身体に触れるなどの行為もあったのかもしれないと思うと、もう六十の半ばを過ぎて落ち着かなければならない年齢だというのに嫉妬の念が渦巻いてしまう。業績拡大のために融資を受けないかという話も持ちかけてくるが、スカイの心情がどうあれ、少なくともコイツの手柄になるような形で受けないからな……! ようやく帰っていった職員の出たドアに塩を撒きたい気分を抑えつつ、スカイにお茶を淹れる。 「なにか、ちょっと不機嫌?」 「いや、そんなことないよ? どうして?」 「上手く説明はできないけど、……しいて言うなら女の勘?」 「勘ねぇ。怖い怖い」 こちらだって上手く説明できる感情ではないけどな、と思いつつ、ビスケットを摘まみながら嬉しそうにカップを傾けるスカイをチラリと見て、献立ノートを広げる。 「今日のランチは……と」 もう前日に作るものを決めて買い出しをしているが、その日の天候や気温、店の周囲でのイベントなどを勘案して最終的に決めるための手続きだ。昨日の買い出しでは鶏がとても安く出ていて、品を見ればなかなか新鮮で上等だったので買ってきてある。まだ新しいので使い切れなかった分は自家消費に回すという手もあるし、短期なら冷凍して次の機会をうかがうこともできる。今日は地域の小学校が午前中で給食もなく授業終了なので、子連れの来客も見込まれる。となると子どもが喜びそうな献立を入れたいが、唐揚げは油を使うのでカロリー的に……ううん、今日は立案に悩むな。 少し頭を悩ませたが、鶏の唐揚げや竜田揚げが嫌いだという人はあまり多くはない。調理中の破裂に気を遣う必要はあるが、さいの目にしたこんにゃくや高野豆腐の唐揚げも取り混ぜることにしよう。そのタネの配合を少しずつ変えればカロリーがこうなって脂質がこうで……いつもよりはブレが大きいが許容範囲だ、よし。 思いついたアイディアをノートに走らせると、昼の仕込みを始めると宣言して厨房に入る。ここからが俺の本領発揮。無心になる。 すべての食材の下拵えを終えると、情けないことにもうヘトヘトになってしまう。歳は取りたくない、すっかりスタミナがなくなってしまった。 「お茶、どうぞ」 スカイが目の前に給仕してくれるお茶は今日は温かい麦茶。喉から胃を経て全身にしみ通る感覚に大きな溜息を漏らす。 「お疲れさま。おいでおいで」 隣に座ったスカイが、少し恥じらうような顔で腕を広げる。その胸に頭をポテンと落とすと、両腕で抱き締めて頭に顔を寄せて頬擦り。十一も年下の妻だが、スカイくらいにしか俺は弱音が吐けない。あまり豊かな胸ではないが、すべての邪念が溶けていくような安心感に縋りつくと、もう少し、あと少し頑張るための気力が出てくる。 「ありがとスカイ。頑張ってくる」 「にゃは、現金なんだから」 少しおどけるスカイの頭をくしゃっと撫でて、再び戦場に飛び込む。 さあ、『サンセット・ムーンライズ』のメインレースだ。五口のガスコンロを点火し、プレートを積み上げる。どこからでも来い、片っ端からぶっ潰してやる。 ……積み上げたプレートが残り数枚になる頃には状況が落ち着いてくる。スカイが厨房に顔を覗かせて、最後の客が退店したことを告げる。今日のランチも予想した程度の数が出たようだ。 唐揚げをひとくちサイズにカットして甘酢の餡を上から注ぎ、プレートを二枚持っていつもの席に向かう。 「今日のまかないは油淋鶏? おいしそう……」 「気をつけろよ? あまりがっつくと……」 「あっつぅ!」 「……火傷するぞと言いたかったんだけどなぁ」 冷水のグラスを差し出す。スカイはそれをひったくるように受け取って飲み干す。 「……でも、おいしい」 「そっか。料理人冥利に尽きる賛辞だな」 食事が終わるとプレートを下げ、冷凍庫の市販のカップのラクトアイスをガラスの器に盛って戻る。 「きょうのまかないはデザートつきでしたか!」 「市販のラクトアイスだけどな?」 「上等、上等」 匙の甘味をニコニコしながら頬張って、スカイはいろいろな話をしてくれる。最近の変わったこと、かつての同期達の近況、天気のこと、釣りの情報、コンビニの新商品、お客のエピソード、町内会の奉仕活動の予定、最近気になるアイテム……。担当ウマ娘のトレーニングのことしか考えてこなかった俺にとって、スカイの話はとても面白い。そして上機嫌で饒舌な口を遮る理由もないので、この時間は本当にありがたい。 二時になると彼女の独演会は厨房で第二部。市販のクッキー生地を型抜きし、上から溶かしバターや卵液を塗ってオーブンで焼いていく。料理については一家言ある俺も、製菓になると強くはない。その辺はやはり女性であるスカイの方が詳しいし、女性らしい可愛さがセンスとして表出してくる。 三時になるとアフタヌーンティの営業。ここで俺はお役御免になる。……元々、スカイはこの営業を頑なに反対した。俺を働き過ぎだと断罪し、ランチの営業が終わればそのままクロージングをしてプライベートの時間を持とうと。だが彼女がやりたかったのは喫茶店であって大衆食堂ではない。もっとも店が喫茶店として輝く時間を捨てることに俺は反対し、一時期かなりギスギスしたが、スカイがアフタヌーンティ営業を飲んだ代わりに、俺には厨房で映画でも見てろという譲歩案を出してきた。少し思っていた感じとは違う結果になったものの、それでスカイが納得するならと、俺はこの時間帯を休憩に宛てる。……そういえばスカイの在りし日の菊花賞の映像を見ていたら、めちゃくちゃ怒られたっけな。 五時半からは掃除。毎日徹底的に綺麗にしているはずだが、それでも厨房は惨憺たる状況になっている。しかしそれを看過するわけにいかない。害虫・害獣の楽園を作るわけにはいかないのだから。 先にフロアの清掃を終えたスカイが、夕飯を作っておくと言い置いて自宅部分に引き揚げていく。こちらもあらかたの行程を終え、あとは床を塩素漂白剤で拭き上げて排水口に洗浄剤を入れるだけだ。それを済ませると、スカイのスクーターを借りて買い出しに出る。穀類や調味料や冷食などについては契約業者に発注して夜中に届けてもらうが、やはり生鮮品だけは自分の目で確かめて仕入れたい。 サラダのキャベツ……天候不順で値が上がったし質もあまり宜しくない。値上がり幅が小さい大根や玉葱を使うという作戦を有効かもしれない。小アジが安いな、鮮度も悪くない。小さいと内臓を取るのが面倒だが、それでもこれは上げても良いし南蛮漬けにしてもいい。焼くのも炊くのもオールラウンドに活躍する。 毎日かなりの量を買うことになるので、ピザのデリバリーのような大きめの箱を具申してみようか……。そんなことを思いながら、箱に入りきらない食材は足下やハンドルになんとか固定して持って帰る。 「おかえりなさい、ごはんできてるよ」 「ありがとう、いただくよ」 どうやら煮物に挑戦したらしい。スカイ本人は『プロの腕に較べたら私の料理なんて』と卑下するが、なかなかどうして、しっかりと味が浸みているし、十分だ。……多少味がくどいのだが、一日働いた身にはかえってこのくらいの濃さがありがたい。 「ごちそうさま。旨かったよ」 「本当に?」 「当然だろ。こんなメシを食わせてもらえるなんてもう今日が命日でも悔いはないぞ」 「今日が命日なのはセイちゃんが許さないのでダメでーす」 「だが平均寿命から考えると俺ももう、いいとこ十五年かそこらだぞ?」 「ダメです。可能なら……私を見送るまで生きてください」 「難しいオーダーだな。そもそも女の方が平均寿命が長い上に、スカイは俺より十一も下だからな」 「やだ。一日でも良いから、私を置いていかないでください。置いていこうとしたら、ついて行きますからね?」 後ろから齧り付くように抱き締められた腕に自分の手を添える。実際に後を追われるのはぞっとしないが、そう釘を刺して暗に長く生きろと言われることはありがたい話だ。 給湯設備から浴槽に湯が張れた旨の通知が来る。 「あ、お風呂沸きましたね。一緒に……」 「ん、一緒に入るか」 お互いに全盛期なんてものはとうに過ぎた身体だが、それでもそれを露わにするのは気恥ずかしいし、相手を見るのもそうだ。でもその相手の裸体がたまらなく眩しいことも確かで……そのせいで、いつも湯あたり寸前になってしまう。 風呂を出ると、あとはもう寝るだけだ。 一緒のベッドに潜り込み、顔を見合わせながらまたいろいろな話をする。いつまででも話をしていたいが……もうこの頃には意識が限界に達している。朦朧とする意識に合わせてか、スカイの口数が減っていく。最後にそっとスカイが肩まで毛布をかぶせてくれて……いつもそこで意識が消える。 これが人生の運の総決算なんだろうな。 総決算なのだから、これもそう長い話ではないはずだ。 だが、願わくば、たとえ一秒でも、この夢の時間が続くことを。 |