#0007 『これが私の毎日のつまらない日常』


 午前五時。
 枕元の古風なゼンマイ仕掛けの目覚まし時計がけたたましく鳴り響き、渋々起きる。あの人と一緒に暮らすようになって新調したダブルベッドだけれど、隣にあの人はいない。そっとその辺を手で探ってみても、もうそこに温もりは残ってすらいなかった。……だから、毎朝やっぱり、起きるのは少しだけ悲しくなる。あの人の温もりと匂いに包まれて起きるという幸せを一度でも知ってしまった身だから。でもこれは時間という誰も抗うことができない祟りのせい。しかたがないことだから。
 目を擦りながら、枕頭台の魔法瓶を開けてひとくち。まだ冷たさが保たれた水が喉を通って、体中に染み渡って、少し意識がすっきりと。
 かすかに青魚が焼けているような匂いがしている。私は傍らのカーディガンに袖を通して、スリッパをパタパタ鳴らしながら階下へ降りる。
「おはよう、よく眠れた?」
「おはようあなた、おかげさまで昨晩もぐっすり。……今朝はサバ?」
「エグザクトリー。最初は味噌煮にしようかとも思ったんだけど、味噌煮に味噌汁はさすがにどうかなと思ってね」
 青い煙を上げていた焼網の切身がお皿へと大根おろしの配偶者と一緒に意気揚々とお引越し。土鍋からお茶碗へよそわれた銀色のごはん。白菜とシメジのシンプルなお味噌汁は湯気を燻らし、卵焼きには私の好みに合わせて甘くしてくれている上から少量のお醤油。小鉢に茗荷の甘酢漬けと、湯呑みに少しだけ冷ましてくれたほうじ茶。
 それがちゃぶ台に並ぶと、あの人はテレビの電源を切った。それは彼のこだわりで、家族との団欒を大事にするために、耳だけでなく目まで持って行かれるテレビに仕事をさせながら食卓を囲むなど言語道断だという方針。逆にどうしても見たい番組があるなら、録画したものを後から見るか食事はその前後にずらすという徹底ぶり。私もそれなりに長く生きているつもりだけど、プロ野球オールスター戦のナイター生中継をリアルタイムでは見ずに録画して、次の日の昼に画面にかぶりつくように見るという人がこの世に存在するとはこのときまで想像すらできなかった。……そういえばこれって、あの野球好きのメジロマックイーンさんやシュヴァルグランさんならなんと言うのかな。……そして本当は、この時間には十五分の釣り情報番組があるから、折角この時間に起きているなら見たいのだけれど、といってもそれは、別にこの人のこだわりを曲げてまで見なければならないほどの価値があるかといえばそこまでではない。ネットの動画サイトでそれこそ後から見ることもできるし。私は昔から出来が良いので、そんなつまんない意地を張ることによるベネフィットが受けるダメージに較べて酷く小さいことくらい知っているんだ。
「さ、召し上がれ」
「いただきまーす」
 あまり過去について詮索したことはないし、これからも特段する気はないけれど、この人はたぶん、良い家に生まれたんじゃないかなとは常々思う。もっともお互いにもう結婚を報告してリアルタイムにその反応を見ることができる年長はいないので、詮索しない限り知りようがない。それを知りたくないというのはウソだけれど、別に詳しく知らなくてもいまここにこの人が横で寄り添ってくれているという事実だけで私は十二分に果報者だし、その事実を知ったがためにその事実がこの距離をぐちゃぐちゃにしてしまうかもしれないリスクを冒してまで知りたいとは思わない。あの人は私の生家の家庭環境が同期達と較べて芳しくないことを知った上で、それでも求婚してくれたから必要以上に私はそのことを負い目に感じる必要はないと思うし、それはそれでいいとしても、私はあの人の過去をなにも知らずに妻の椅子に座ることができたわけで、もうここを誰にも譲りたくないし当然ながら私の命ある限りどこの誰にも譲る気なんかない。でも新事実という敵か味方かすらわからない存在は、その女王の座を永遠に強固なものにしてくれるかもしれない反面、いとも簡単に、そして冷酷に私を蹴落とせる力がある。だから私はあの人の過去を、あの人が自発的に話してくれるならともかく、無理に知らない方が良いんだよ。……あ。ここでいう良い家というのは家柄だとか経済的に恵まれているという意味ではなくて、適切な距離感の家族から適切な教育や躾を受けたという育ちの意味で。正座を崩さず背筋も伸ばしてお箸が捌かれて、少なくとも私が眉をひそめるようなマナー違反をまるで犯さない。食べるペースだって私を見て、それより少しだけ早いくらいにしてくれるから、ヘンに焦りを感じさせない。そして、私も魚を食べるのは上手な方だけれど、この人は私と同じくらい綺麗に食べる上にその所作まで綺麗なので、それはいつも悔しいなあ。
「ごちそうさまでした、おいしかった……」
「どういたしまして、お粗末様でした」
 私が手を合わせると、私が立ち上がる前に食器がスッと引かれてしまう。そしてそのまま流しに立って、放置することなくすぐに洗って拭いて片付ける。さすが栄養士と調理師のダブル免許持ちのプロ、衛生管理の基礎中の基礎である3S、つまり『整理・整頓・清潔』をまったく疎かにしない人だ。でもおそらくこの人は、それを『しなければならない』なんてきっと微塵も思っていないところがすごく……格好良い。
 洗い場から戻ってくると、この人はすぐに店の調理場に立って、やりかけていた朝の仕込みを再開。朝に出すのは定番のモーニングプレートだけだから、少しふわとろ感を残したスクランブルエッグを作って、サラダのための野菜を準備するくらいだよと簡単そうに言うけれど、この人がこの店の調理場を牛耳るようになって以降、間違いなくこの店の評価が格段に上がったことは認めざるを得ない事実だし、いっそ完全に彼の掌握下に置いた方が繁盛するかもしれない。でも私がそれを冗談でも提案すると、この人は烈火のごとく怒る。そんな簡単に自分の夢を他人に譲り渡すのか、って。口は災いの元。くわばらくわばら。
 さっきまで丸のままごろんと置かれていたはずのレタスとキャベツとピーマンとニンジンが、誰がどう見てもドレッシングを掛ける直前のサラダに変わってる。あまりにも無駄も迷いもないスマートな包丁の動きに目を奪われてしまう。
「スカイ? ずっと見てるけど、フロアの掃除は終わってる?」
 今度はそのサラダのドレッシングソースを作りながら、彼からの指摘。
「おぉっと、あまりにも鮮やかで、そして艶やかなその所作に見とれたせいで、コロッと忘れてました」
「そうか。こんなもん秘密にするようなことじゃないから望むならいくらでも見せてやるけど、でももう五分は時間を無駄にしてるぞ。少し時間を巻いてよろしく」
「はーい、セイちゃんちょっと本気出しますね」
 ……ははっ、今までの私なら『えー、昨日の閉店後にしてるから大丈夫でしょ?』とか言ってたよね。でも今のセイちゃんはそのセリフだけは言えないんだな……。あの人はあそこまで、籍が入って同じ家族になったとは云え他人である私の店に対して妥協をしないのに、店主たる私が安易に妥協するなんて私の負けず嫌いが許さない。自分だけの夢なら案外簡単に諦めがつくけど、あんなに粉骨砕身で夢を支えてくれる人を見てなおそれを裏切れない。
 まずは埃が溜まりそうな場所をはたき掛け。雑巾で窓を拭き、金具の部分は研磨剤のペーストをつけた布で磨く。カウンターと全部のテーブルをダスターで拭き上げたら什器備品の確認と補充、椅子の座面も掃除して、最後に床をモップ掛け! ほぼ毎朝していることなので、そこまで酷い汚れもない。となるとその状態の維持さえしてれば良いのでこれだけの掃除でもそこまで苦労はしない。
 そうこうしていると仕込みを終えたあの人が、いつものカマーエプロン姿(これは掃除用の仕事着なので濡れても汚してもいいものらしい)で外へ出ていく。暑くても寒くても雨でも雪でも嵐でもその日は営業するとなれば絶対に出る。天気が悪いからとか暑いから寒いからといって今日は中止するとかいう寝言は一切吐かない。壁に汚れがあればデッキブラシを振り上げて擦り取り、反射する自分の姿すら映らないってくらいに外から窓をピカピカに磨き上げて植え込みの簡単な剪定と掃除、近所の人達との談笑も交えつつ街路の掃除を手早く終わらせてくれる。……今朝は『あれ』は落ちていなかった模様。……そう、その『あれ』こそが、彼に「スカイに外掃除をさせるなんてとんでもない」と言わしめた原因。それは……野良猫が戯れて飽きて放置したであろう鼠の残骸。最初それが何か気づかずに手掴みした私は、それがなにかを理解した次の瞬間、頓狂な絶叫を上げてパニックを起こして、我に返ったら往来の中で通行人や近所の人の好奇の中で店から飛び出してきたあの人の胸の中にぎゅっと抱き締められてて……ははっ、セイちゃん情けない。……でもそんな情けない私を鎮まるまで包み込んでくれるあの人はいろいろな面で規格外だと思う。だって、パニックを起こしたウマ娘をヒトが丸腰の単身で優しく鎮めるなんてこと自体が危険極まりない行為なのに、この人はそれを躊躇しなかった。それも他人の目をなにも気にせず。そしてこの件でだけは一切揶揄してこないから、もはや本当にこの件を忘れてるまであるかもしれない。ただ『外掃除はスカイはやらない』という暗黙のルールだけがあの人の脳味噌に残ってる。世間のヒトはそこまでウマ娘の怖さを知らない。二人や三人、無辜のヒトに目も当てられない程度の重傷を負わせていた可能性だってあったのを、あの人のおかげで『鼠に驚いてパニックを起こしたいい歳のウマ娘が新婚の旦那の胸にすがりついた』程度の笑い話で処理してくれたことは本当に感謝しかない。もちろん恥ずかしくてこんなこと本人には言わないけど。
 そうこうして六時二十分、予定通りに全工程完了。
 六時半に開店。開店の儀式として、私は小気味良い音を立ててあの人とハイタッチをするようにしている。お互いの健闘を祈るという意味で。家庭菜園の手入れや散歩や公園でのラジオ体操、毎朝の日課を終えた近所のお客さんが来てくれる。この人達のおかげで、ありがたいことにこの店の朝の売上は雨が降ろうが雪が降ろうが大きく落ち込まない。槍でも降れば別かもしれないけどね。
「おはようございまーす! いらっしゃいませー!」
「おはよう、今日もこの店のオシドリは仲が良さそうだなあ!」
「ふふーん、おかげさまで! なんてったってまだまだ熱々の新婚なので!」
「はいはいごちそうさま! もう朝メシ食わなくても腹一杯だから帰ろうかな!」
「待って待って今のなし! 帰らないでぇ!」
 七時半くらいになるとこれから出勤の方が、八時半を過ぎた頃になると近くの病院勤務の夜勤明けの看護師さん達(時期によっては実習の看護学生さんらしい人を引き連れて)が来てくれる。だいたいは常連とまで云えなくても、それでも『いつもの』とかいうオーダーをされたって好みのお茶の銘柄、濃さ、ミルクの有無についてはちゃんと対応できるくらいには来てくれている人。
 午前九時半にモーニング営業終了でいったん閉店。その時間を見計らってご近所の信用金庫の職員さんが……あの支店の次長って言ってたっけ……来て、集計を済ませた前日の売上金を回収してくれる。ここを私が開業してからずっと私が持参して預金口座に入れていたのだけれど、最近は業績が伸びてそれなりの大口客と見込まれたのか、あるいはあの人が運営に加わったことで『あの喫茶店はしょせん女のオママゴト』と思わなくなったのか、あちらから回収に来てくれるようになった。昨今は治安が少し悪くなったし、いかに私がウマ娘とはいえそこそこの現金を提げて一人で街を歩くのは少し心細かったのでとても助かってる。二号店を出しませんか手頃な物件を知っていますよとか従業員を雇ってもっと手広い商売をしてはどうかとか、融資に繋げたいとおぼしき勧誘は受けるけど、あの人が上手く『考えときますね』なんて躱してくれる。……その『考えときます』って、大阪あたりでは確か提案者に角を立てない断り文句って聞いたことあるけど、それをこっち出身の職員さんが理解できているのかどうか。もちろん『あの件についてご検討頂きましたか?』なんて追撃が来ても、この人なら私に対してそうするみたいに上手にカウンターを入れてくれるとは信じているけど。私がその話に興味を示して前向きにならない限りは。
 お金を持った職員さんを見送ったらファイルに受取書を綴じて、カウンターに座って、市販のビスケットを摘まみながらあの人が淹れてくれるお茶をいただく。そのお茶の給仕までは彼は恭しくしてくれるけど、彼はそこからノートにつらつらとペンを走らせたらすぐに調理場に引っ込む。正午からのメインレースであるランチ営業の仕込み。私はそのノートを繰る。
 毎日見開きの二ページを使ってあの人が書くのは、今日の日替わりランチの献立。大食漢向けの『たくさん食べてもカロリーや塩分を過剰摂取しないように配慮した大盛りのランチ』と、逆に食が細い人向けの『量は少なめだけれど必要な栄養をしっかり取れるランチ』について書いてある。これの何が怖いって、見た目はどちらもほとんど変わらず、ただ大盛りか小盛りかの差にしか見えない上に、食べ比べたって味に大きく違いがあるようにすら感じないけれど、食材・調味料・調理方法を変えることによって『どちらもその見目にかかわらずほぼ同量の糖質・脂質・蛋白質が摂取できるように仕上げてある』こと。最近になってようやく理解が追いついてきたけど、最初のうちは彼が何を言っているのかわからなかった。
 私はノートを一読してからレジ横の棚からA4サイズのコピー用紙を取り、即席のPOPを作る。手慣れてきたのでこの作業は大体いつも十五分プラスマイナス五分の作業。文字だけでは寂しいのでイラストも描く。……こればかりはさすがに技量的な面ではアグネスデジタルさんとかメジロドーベルさんにはまったく叶わないと思うけど、それでも毎日描いていると下手なりに妙な愛嬌がある絵ができあがって自画自賛してるしあの人も褒めてくれる。そしてそれをレーザー複合機でカラーコピーを取って、硬質タイプのクリアホルダーに挟んで各テーブルに置いておく。原本は彼の余白がなくなったノートと一緒に保管箱を作ってそこに片している。
 十一時四十分。仕込みを終えた彼は少し疲れた顔でホールに出てくる。カウンターに座るそんな彼にねぎらいのお茶を給仕するのは、私の大事な仕事のひとつ。あまりに疲れが濃さそうな時は、隣に座ってちょっと腕を広げる仕草をしてあげる。誘蛾灯に虫が寄ってくるように彼の頭が私の胸に落ちてくるから、それをきゅっと抱えてその髪に頬擦り。三分もしたら瞳のピントが戻ってきて、また元気に厨房に立ってくれる。
 正午から午後一時までは、この店のメインレースであるランチ営業ステークス。事前にある程度の準備ができている調理場と違い、ホールの作業は毎日シチュエーションが変化する出たとこ勝負。この店では、主にあちら側の要望で臨時に入ることはあってもこちらの希望でアルバイトさんを入れることはしていないので、配下膳と会計とオーダーがブッキングすれば当然お客さんを待たせなきゃならない。でも、そういうシチュエーションではヘルプを頼む前にあの人が調理場から出てきて私が届かないところをカバーしてくれる。一体全体どこにそういう状況を察知するための耳目を置いているのか、たまに怖くなることがある。
 一時ラストオーダーで、大体いつもランチ終了の閉店が一時半前。それから二人でお気に入りの席でまかないのランチ。この時間帯がもっともゆったりしているから、私達夫婦の会話が弾むのもここ。もっぱら私が話すばかりであの人はそれを黙って聞くばかりだけれど。でも、時折話題に対する質問が飛んできたり、その話題が彼にとっても興味があるもののときは、少し身を乗り出し気味になるので、ちゃんと聞いてくれてるんだっていうのがとても嬉しい。
 二時になったらお喋りの場は調理場に移る。オーブンを予熱して、その間に二人でクッキー生地を型抜き。さすがにこのマンパワーで本格的な手作り菓子を提供するところまでは回せないから、アフタヌーンティ営業で出すミルフィーユなどのケーキは既成の冷凍品を自然に解凍したもので、こうやって型を抜いているクッキーも既成の冷凍品を成形して焼くだけ。もしかしたら、マンハッタンカフェさんなんかはこだわりが凄そうだから、こういうのも粉からちゃんと作っているのかもしれないね。
 午後三時から五時半までがアフタヌーンティ営業。もうこの時間はレース場の第十二レースみたいなもので、ランチ営業の熱狂をクールダウンする感じのまったり営業。食事もランチ営業で残ったものがある分はもったいないから惜しみなく出すけど、新たに作るところまではやらなくて、基本は紅茶とコーヒー、一緒に作ったクッキーや解凍したケーキを提供するのに留めている。だから仕事帰りのお客さんがこれから徐々に増えるであろう五時半で店を閉めてしまう。現役のトレセン生もここでお茶をしながら話の花を咲かせていることがあるけど、そんな娘達にも『そろそろ帰らないと寮の夕食に遅れるよ』と言えばわだかまりなく帰ってくれる。それは私なりの配慮のつもり。……だってあの人、まだ夜も明けないうちからここまでずっと働きづめで、本来ならこのアフタヌーン営業すら私は店を開けることを頑なに反対し、ランチ終了後にクロージング作業をしてそこからはプライベートにしようと主張した。この件がおそらく結婚してからいちばん対立したことかなっていうくらいバチバチになった。でも。
「結婚前に俺に言ったじゃないか。『ここは喫茶店なんですよ?』って。モーニングとランチを今の態勢でやるだけじゃここは大衆食堂になってしまう。それならそんな可愛いエプロンドレス姿をお披露目せずに割烹着を着てなさい。それに、スカイがやりたかったのは大衆食堂だったのか?」
「あー……もう、わかりました、私の負けです。あなたはそんなにも私の影として働きたいんですね? じゃあもう奴隷のように働いてもらおうじゃないですか。……でもアフタヌーンティ営業は、私のやりたい形で店を開けますからね? 口を挟ませませんからね?」
 そういう経緯から、こうなってる。あの人も大概頑固だけれど、私の負けず嫌いも相当なものだってことはあの人だって知ってる。だから私の意図を汲んでくれて、ランチの残り福が注文されることを含んだイレギュラーが発生しない限りは、彼には調理場の折りたたみ椅子で、小さなモバイルパソコンで好きな映画を見てもらったり、そんな時間を作った。
 いろいろなものを見て楽しんでくれているみたい。映画の製作国を問わず、アクションからサスペンス、SF、時代物。最近は私が何気なくサジェストした釣りバカ日誌を見てくれてる。……そういえば先日は私が焼いたクッキーを取りに調理場に行ったらいつもは反応して手を振ったりしてくれるのに、そのときは珍しく食い入るように画面を見ていて気づかない様子だったから、なにをそんな熱心に見ているんだろうと後ろからのぞき込んだらふっるい映像。
「……場の上空とおんなじ! 青空! セイウンスカイの勝利! 今日は淀も青空だ!」
 画像の先頭に映っているのは、……若かりし私!
「なにを見てるんですか!」
「何って、え……? スカイの菊花賞……」
 キョトンとした表情で当惑する姿の後ろから、思わず私はモバイルパソコンの蓋をバタンと閉めましたよ。
「すけべ、変態、えっち! 若い私のあられもない姿を見て、お店の中で欲情するなんて最低!」
「は? いや、えっと……?」
 思えばあれは気が動転したからだとは云え悪いことをしたなと。動転したままフロアに出たけど、嬉しさというのは遅効性で、未だにあのレースを覚えていて見返してくれて、しかも結末知ってるのに熱くなってるあの人に胸がいっぱいになっちゃって、かなり気持ちの悪いニヘニヘとした顔で接客してたんだと思う。……そんなことは黒歴史だからもう喋るのやめるけど。
 ええっと、ああそうそう、アフタヌーン営業の終わりのところだっけ。
 店を閉めたら徹底的に掃除をする。朝の掃除は気持ちよくお客さんを迎え入れるための儀式だけど、夕の掃除は落ちた食べこぼしや食材の端切れを徹底的に排除して害獣害虫を寄せ付けないための手続き。意味合いが違うから手抜きは赦されない。とはいえフロアはまだ楽で一時間ちょっともすればOKだけど、調理場を与るあの人は洗い場のかすかな水垢や排水口のヌメリすら見逃さないで綺麗に磨き上げて、塩素漂白剤やアルコールを使ってピカピカになるまでやるから、その倍どころの騒ぎじゃない。……私がここを買ったときより綺麗な調理場って、器具什器の総交換以外の何をやればそういう逆転現象が起こるのか、率直に言ってちょっと理解ができなくて、あれはあの人が掛けた魔法だと思ってる。そしてその掃除を終えたらあの人は明日の食材を買いに出かけていく。穀類や調味料や冷凍品などの食材を定期的に発注して届けてくれる契約の食品商社があるけれど、そしてそこからも日々の野菜や精肉などに関しても任せてもらいたいというラブコールがあるけれど、あの人は、生鮮品だけは自分で見て良いものを仕入れたいし実際に売物を見ないと毎日の日替わりの献立は考えられないと、それを悉く袖にしている。私も影でお任せしたらと言ってみたら、この人は『それがスカイの意向なら……』とか言い出す。あの人は私を支援することが至上の喜びみたいだけど、それはあなただけの特権じゃないんだって、ちょっと強く叱ったかな。あの人が私を、この店を最良にしようと考えてくれたことに、私はケチを付けるわけがないんだから。
 そういうわけで、二人の夕飯を作るのは時間が空いている私の役目。免許持ちのあの人に較べたら、どんなに頑張ったって情けなくて泣きたくなるくらい稚拙な献立。それでもあの人が私の用意した食事について不平不満を言ったことは一度もない(味付けなんかに的確な助言をすることはよくある)し、最後の一掬いに至るまで絶対に残さないで食べてくれるから、少しはあの人の慰めになってくれているのかなって自己解決できてる。
 その後のこと……は、プライベートな時間なので……。
 どうしても言え? そこでツルちゃんは大きく頷かないでくださいよ、ツルちゃんだけは私の味方じゃないんですか?
 ……はぁ。ええいもう! こういうこと言えばいいんでしょ! お風呂は二人で一緒に入ってますっ!
 ……一般のご家庭のお風呂だから広くないし、片方がお湯に浸かっているときは片方が髪や身体を洗って、それが終わったら交代して。うう……。
 ボディソープとシャンプーの銘柄ぁ? そこまで答えなきゃだめ?
 ……普通の赤い箱の石鹸ですよ。髪も。たまにあの人が洗ってくれる。しなやかに指で揉むように洗ってくれるから、ついウトウトしちゃいそうなくらい気持ちよくて。
 石鹸で髪を洗っててごわつかないかって? そうだね、洗った直後は軋むけど、そのあとお酢を薄めたのでトリートメントすれば、石鹸で汚れは取れるし地肌もスッキリするし、お酢でキューティクルが締まるからか髪も綺麗になるし。そのせいかな、最近の私の猫毛っぽさが少し薄れてきて、少しだけだけどシットリつやつやになってきてるんだよ?
 ……はい! お風呂の話はここまで!
 ……そのあとは、寝室で一緒に少し話をするんだけど、臨戦態勢から解放されて、その上お風呂でリセットされてるから、あの人は九時過ぎにはもう力尽きて寝ちゃってる。さすがに私の現役トレーナーだった頃の無尽蔵の体力から較べたら酷だろうけど、そこはさすがに歳を感じちゃうね。徐々に私の話に対する相槌や返答がぽやぽやしてくるからそれが合図で、そこから私も話をするペースを徐々に下げて、寝ちゃった後に肩に毛布を掛けてあげて、その寝顔を見るのは好き。この顔を見られるのは私だけの特権なんだ、って思うとね。


 それを毎日毎日繰り返しているだけのつまらない日常だよ……ってなんでみんな、そんな呆れた顔してるの? ねえ?

(約四十年ぶりの修学旅行と称してかつての同期と一緒に温泉に行ったセイウンスカイ・談)


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