#0006 『私であなたをほぐしていきます』


 骨に触れたのかと。最初はそう思った。
 場所をずらし、再度触れてみる。しかしそこも同じだった。
「な……なにこれ……?」
 困惑する声と、快感を隠しきれない吐息。
「はぁ……何と言われても……困る。俺の肩、としか……あぁ……」
「いやいやいやいや、これ放置したらダメなやつでしょ。なんですかこの硬さは」
 申し訳程度に薄いゴムマットを敷いた事務机の表面。それが愛してやまない夫の肩にあった。
「そう……なのか?」
 軽くペタペタと触れているだけなのに、それですら滞留していた老廃物を大量に含んだ古い血液が動いてその部位に酸素と栄養を載せた新鮮な血液が届く快感を覚える程度に、誰がどう見てもダメな硬直。
「よくもまあこんなモノを持ちながら、臆面もなく現役時代の私に『身体はしっかり柔らかくしろ、怪我するぞ』なんてご高説を言えてたもんですね? ……ちょっとセイちゃん、これほぐしますからね? ちなみに、少なくともこの件に限っていえば、あなたに拒否する権限は一切ありません。返事ははいかイェスです」
 もそりとダブルベッドから半身を起こして、うつ伏せに転がした夫の背中に跨がる。下腹部に感じたその背中のこわばりも、およそヒトの身体とは想像したくない硬さだった。
 しかし。安易にほぐすと言ったものの。
 両方の肩甲骨を起点にその周辺、背筋、鎖骨周り、二の腕、首筋、後頭部、耳の後ろ。そのどこを探っても鼠一匹入り込めない鉄壁の防御、比較的ここが柔らかいのでここから徐々に弛めていこうと思えるポイントが見つからない。軽い力で頸動脈を十秒も圧迫するだけでヒトはあっさりと気絶すると聞いたことがあるが、これはもうアレだ、この人に限れば『軽い力で』圧迫した程度では血管はおそらく塞がらない。
「もうこれ、三十分や一時間揉んだからといってどうにかなるレベルの話じゃないですね。よく病院なんかで使う、最悪の状態を十としたときの段階でいえば間違いなく五十より上です」
「え……そんなに……?」
「どうしてこんなになるまで黙ってたんですか。確かにあなたから見たら頼りないかもしれませんけど、私、それでもあなたの妻なんですよ?」
「あぁ、泣くな泣くな」
 声に湿りを感じて、慌てて下敷きにされていた方が言う。
「ごめんなスカイ。でもな、これ……。それこそ物心がついた頃からこうだからさ……」
「つまりこれがデフォルトだったから、これがとんでもない状態異常のステータスだと認識しなかったと?」
「あー、……つまり、そういうことになる」
「……そうですか。でももう認識できましたよね? これが致命的な状態異常だと」
「……うん」
「その状態異常、セイちゃんが今から治しますね?」
「でももう十段階の五十より上なんだろ?」
「今すぐ治すとは言いませんでした。あなたの一生が終わるまで、時間を掛けて、じっくり治します」
「それはありがたい……な。よろしく頼む」
 局所的な強い刺激で弛めることが不可能なら、広範に刺激を与えて少しずつ溶かすしかない。
 掌底を置いて、押して、それをぐりぐりと回して、それを延々と、延々と繰り返す。しばらくは甘美な吐息が聞こえていたが、やがて反応がなくなった。その代わりに穏やかな寝息が漏れていた。


「おはよう、スカイ。そろそろ起きたっていいんじゃないか?」
 ハッと目を覚ます。寝室は既に明るく日が差していた。壁の時計は無情にも十時をとうに過ぎている。
「えっ、えっ? ええっ!」
 ガバリと跳ね起きる。
「も、モーニング営業! 開けてない!」
「その心配はない。ちゃんと俺が開けて、さっき閉めてきた。お客さんには簡易営業になってしまって申し訳なかったけど。ランチ営業の仕込みももう終えてるよ」
「なんでそのとき起こさなかったんですか……?」
「いや、かなり本気で起こしたんだが、俺の上に覆い被さったまままるで起きなかったじゃないか。しかも俺の背中によだれまで垂らしてさ……」
「ふぇえっ?」
「仕方がないから布団の中に戻して、寝てもらった」
 そういえば施術をしている記憶はあるが、施術を終えた記憶がない。いくら籍を入れた夫とはいえ、大失態を曝したことに気づいて深くシーツをかぶる。
 でも。
 そんなことは意にも介さずそのシーツに夫が潜り込み、羞恥で震えるスカイの身体がそっと包まれる。
「そもそも、どうしてスカイが昨晩肩に触れてきたのか。その理由に思い当たってね。ああ、そういえばそちらの問題についてはまったく解決させてなかったよな、って思った。……今からでも、いいかな?」
「……いじわる」
「疲れてたのかな。普段ならあんなあからさまなコンタクトを取る前に気づいてやれてたんだけど、ごめんな」


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