#0004 『わたしだけのあなた、あなただけのわたし』 それはまるで地獄のような一時間だった。 「ちょ……ちょっと休憩しましょ! 表の札を裏に返してください!」 カウンターに突っ伏すようにエプロンドレスが悲鳴を上げ、店に残っていた最後の客を送りに出ていたカマーエプロンが苦笑しながら札を返す。 「なんですかあの混雑は。一体全体……この一時間で何人来たんですか……」 「ええっと、二十六組、四十六人かな」 POSレジの管理画面を開いたカマーエプロンが冷静に調べて報告する。 「ここ、そもそも客席数十八ですよ? この一時間で何回転したんですか……?」 「二回転半とちょっと」 「いや冷静な回答が欲しいんじゃなくて……」 「わかってる。お疲れさまスカイ。店も一旦閉めたことだし、昼のまかないにしようか」 「……うん。もう疲れたよあなた」 「わかった。座って少し待ってて」 カマーエプロンの初老男性は軽くその耳を揉むようにスカイと呼んだエプロンドレスの頭を撫で、手早く茶器の準備を始めた。撫でられた頭を押さえて年甲斐もなくはにかみながら、エプロンドレスのセイウンスカイは、フロア最奥のいちばん日当たりが良いテーブルに座る。 やがてトレイに大きめのポットとふたつのマグカップ、そしてピーマンと人参に細く裂いた鶏の胸肉を合わせビネガーとオリーブ油のソースを絡めたサラダ、もうジャパニーズマカレルのセビーチェと呼ぶ方がそれっぽいアジの南蛮漬け、スパイスが香る色気を醸した米飯が盛られたランチプレートが二枚運ばれてくる。 「わぁ……今日のも美味しそう……」 目の前に置かれた昼食を見て、ぱっと華やいだ顔になる。マグカップには温められたミルクが半量、そこに熱々の濃いアッサムがなみなみと注がれて、少量のクローブの粉末が降り注ぎ、別の芳香が鼻腔をくすぐった。 「さ、スカイお嬢さま。ボナペティート」 「いただきまーす!」 「あぁ……今日のお昼もすごかった……毎日こんなまかないが食べられて、セイちゃんは今が一生でいちばん幸せです」 「そいつはどうも。いまのスカイは邪気なく美味いもんは美味い、不味いもんは不味いって言って食べてくれるから、腕の振るい甲斐がある」 「まさかあの朴念仁なトレーナーだったあなたにこんな隠し球があったとは、お釈迦様でもご存じあるまいってやつですね。愛する夫と有能な厨房担当を一挙両得にしちゃうセイちゃんさすが!」 「ははは……でもな、スカイの担当をしていた頃は、まさか自分にこんなことができるとは露ほどにも思ってなかったぞ。実際、メシは学内のカフェテリアか、でなければカップ麺、せいぜい頑張ってトレーナー寮の他のやつらと共同で米だけ炊いて、商店街かスーパーで買ってきたお惣菜を電子レンジで温めて食うか、料理得意を自称するやつが作ったのをつまんで食うのが関の山でさ」 「ほうほう。……では、どうしてこんな才能が突然に開花したわけで?」 「自分のためだったら、一生こんなマネはできなかったな。トレーナーをやっていたらいろんなウマ娘の育成をして、中にはとんでもない大食らいな娘がいるかと思えば、逆に口という器官は声を出すため以外の用途はないと信心しているような娘もいて。……食うことが楽しみでこれ以上の幸せはないって娘に食うなって言うのは簡単だし、その逆に食事はこの世で五指に入る苦行だと思っている娘にもっと食えってのも簡単だ。でも言われた方は?」 「うーん。セイちゃんは過食でも拒食でもなかったから本当のことはわからないけど、たぶん難しいよね……」 「とんでもないストレスに襲われる。それでも食うまいとか食おうとして若干ヒステリックになる程度で済めばまだいいが、恒常的にそうなれば確実にメンタルを壊す。健全な肉体にこそ健全な精神は宿ると云うが、その逆も然りだから、精神を病むと走るどころか下手すると命すら保てなくなる可能性もある」 「……怖い話ですね」 「じゃあ、多少食い過ぎても問題ない、あるいは量が食えなくても問題ない。そんな献立を考えられるようになればなと思ってね。まずはカフェテリアの調理員として、トレーナー業に従事していない時間帯なら年中無休の二十四時間即応体制で構わないから使ってくれ、給料も二年の実務経験をくれるだけでいいからと頼み込んで兼務した。とはいえ生徒達の見えるところで現役トレーナーが鍋振っているのは都合があまり良くないから、基本は裏で食器を洗って野菜を刻んで米を研いでスープを炊いて、そういう裏方業務にほぼ専属だけどさ。ありゃもうあの頃の若さだから押し通せたが、今やったら三日も無理かもな……」 「ええ……それはまた思い切って……」 「まさかトレーナー業放り出してまで暢気に全日制の養成学校に行っていられないからな。そして調理の実務経験を二年積んで国家試験を受けて、まずは調理師免許を取った」 「マジですかそりゃあ料理上手なわけだ……」 「それから短大を社会人入試で受けた。こっちはまあ、毎日通学しなくても通信でもある程度の講義を受けられたから楽で、それに栄養士免許は指定の養成機関で必要な単位を取得するだけで無試験でいいから、調理師のときに較べればはるかに楽だった。それにちょうど一時期、他の売れっ子専属トレーナー達が多忙で手が回らない事務関係のサポートをメインでやって、時間も比較的余裕があった時期とブッキングしたのも幸運だったと思う。……そして本来なら栄養士から管理栄養士を目指せば強いんだが、管理栄養士ってのは一段厳しいコースで勉強して規定単位取得後に国家試験だから、さすがに二足の草鞋では時間の捻出が難しいと思ってね。別にこれを本業として食っていくためでもなかったし、同時に何十何百という大勢の管理ではなく、トレーナー業の片手間で数名程度の栄養管理なら、栄養士と調理師免許程度の技能教養でなんとかなるだろうと思った」 「いやいや、もうそれは立派に本業として栄養士や調理師として第一線級の活躍ができるレベルでしょう? それこそカフェテリアの管理責任者に抜擢されてもおかしくないレベルじゃないですか。中央のトレーナー試験にパスできるくらい頭がいいはずなのに、あなた底抜けのバカなんじゃないんですか?」 「えらく酷い言われようだな。……まぁそんなわけで、さすがに限度はあるが、心置きなくいっぱい食っても心配がない、あるいは逆にあまり食えなくても相応の身体が作れてしっかり走れる、そんな栄養指導や食事指導もできるようになった。といってもトレーナーとしての守備範囲が少し広くなっただけで、結局のところスカイみたいに大きなG1でバンバン勝てるような、そういう華々しい実績のあるウマ娘は育てられなくて、だからトレーナーとしては至って凡庸だったけれど、それでもあのトレーナーに師事すれば重賞を狙える程度までは確実に育ててもらえるとかなんとか評価されてたみたいで、大家族ではないがチームも持って、おかげさまで定年までトレーナーを続けることができたよ……」 「そうですか……。つまりそのスキルは、私以外の愛するかわいいウマ娘ちゃん達に鼻の下を伸ばすために得たと、……こういうことですね?」 「……え?」 「ごちそうさま。食器は水に漬けておくので」 有無を云わさぬ強さでセイウンスカイは立ち上がり、厨房へ消えてしまった。 「……と、いうわけで」 「いや……非常に今のスカイさんならやりそうだなとは思うことだけれども、そして今回に限っては、あまりあなたに非があるとも思えないのだけれど、それでも犬でも食べないものをホイホイと軽率に持ってこないでいただけるかしら……?」 「面目ない……」 「あらあら、こんなにも面倒な重い女子でしたっけ、セイちゃんってば」 その翌朝、ベッドの枕頭台に一枚のメモを残して、セイウンスカイはいなくなっていた。調べれば愛用の釣竿とクーラーボックスと、彼が定年を迎えた退職金であてもない旅の相棒として購入していたウオークスルーバンに発電機も消えていたので、それらを積んで家出をしたらしかった。幸い架電をすれば呼出をする音は鳴り、メッセージを送っても返信はないものの『既読』のマークは灯るので、少なくともこちらからの呼びかけが届かないという状況にはないらしい。 「あの車と一緒に家出をしたのなら、雨露を凌ぐことができる最低限のねぐらとキッチンも確保しているということよね。安全に車を駐めておける場所さえあれば、安価に長期間の籠城も可能、しかも敵襲がありそうだと思えばすぐさま逃亡して戦況を立て直すことができる……ふふっ、スカイさん、そういうところのしたたかさは、昔から変わらないわね」 「本当に、そこはセイちゃんらしいですね」 「いや……感心してないで、どうにかする方法を、せめてヒントだけでもなんとかしてもらうことはできないだろうか……」 「あー……私の夫もだけど、あなた達トレーナーというのは、何の変哲もない事象を見て急に閃く人種だったわね……。それこそヒントさえあればどんなことでも勝手に解決できるおかしな人」 「つまりセイちゃんは、『あなただけのために』とトレーナーさんにお料理を作ってもらったことがなくて、それで栄養管理や食事管理まで甲斐甲斐しくお世話を受けた後輩ウマ娘に嫉妬したということではないかと」 「……あぁ、言われてみると、店で一緒に食ってる三度のメシは、あれはあくまでまかないで、その日か前の日に余ったものを、多少はアレンジする程度はともかくそれで出しているから、スカイのためだけにと作ったものではない……か」 「それからあのお店、特に決まった店休日があるわけではなかったわね?」 「そうだな。何か特別な用事があるときとか、一緒に旅行に出たりするときくらい……か」 「つまり本当に、トレーナーさんはセイちゃんにセイちゃんのためだけにお料理を作ったことがない、ということですね?」 「……なるほど」 「……グラスさん、もうヒントもこれくらいで良いのではなくて?」 「そうですね。私達のセイちゃんサポートはこれで十分ですね」 「せいぜい頑張りなさい。この件についてはこれ以上手助けはしないけれど、いい報告を期待しているわね」 「おいしいG1プレートを期待しておりますよ」 運転席横の補助席を開いてちょこんと座り、焼いた魚の身を箸でほぐす。釣ったばかりの天然物をすぐに処理して適切に冷蔵庫で寝かせた上等。塩加減も申し分なく、ちゃんと手順を抜かりなく踏んだので網に皮や身を持って行かれることもなく、我ながらA品、デパートの地下で売っていたものを出したと言われてもバレることはないと自負したイサキの塩焼き。 「なんだか……あんまりおいしくないや……」 それでも、奪った命を無駄に捨てるわけにはと箸を進めるも、途中で動かなくなった。 「あの人が焼いてくれてたなら……きっととてもおいしいのに……」 「……そうか? 美味そうなイサキだけどな」 車の荷室側から不意に声が掛かり、あまりにも慌てたセイウンスカイは持っていた皿を空中へ放り投げた。 「おっと。もったいない」 声の主はその皿をサッと掴む。ほぐした身を指でつまんで口に入れる。 「……うん、いい加減だ。これはいい」 「え……あ……なんでここが?」 「だってスカイ、スマホのGPS設定を切ってないだろう? その上、これを焼いたときの換気のためだろうが後部荷室のドアは開けっぱなし。どうぞ入ってきてくださいって言ってるようなもんだぞ? 人の気配のない場所とは云え、いささか防犯意識が欠けてるなあ」 「GPS……ふぇっ?」 慌てて設定を調べる。……なるほど、指摘の通りだった。 「だからデバイスを探す操作をして、ここまで追ってきた。そのスマホとこのスマホは紐付けされているから、GPSが切れていないことに気づいた後は、もうスカイがいるところへ迎えに行くという選択しかなかったよ」 「え……や……だって、ここ、最寄り駅から歩きだと軽く半日はかかるはず……」 「バスなら最寄りの停留所から四時間半くらいかな。そのバスは土休日に一便しか走らないけど」 「まさかタクシー? いくらかかると……」 「そんな贅沢するか。アレだ」 その指の先には一両の見覚えがある百二十五の原付スクーターが駐まっている。 「はぁっ? ……前から思ってたけどいま確信に変わりました、あなた本物のバカでしょう! だってあれだと店から何時間走ることになるんですか!」 「昨日の夜九時に店を閉めてから出発して、途中で何度か道の駅とかコンビニで休憩を入れながら来た。着いたのはさっき。……いやあ、久々に学生の頃に軽二輪のバイクでロングツーリングを楽しんでいたことを思い出したよ。忘れかけていたがなかなか面白い。バイク趣味はまた始めるのも悪くないな!」 時計を見る。 「……十八時間走ったんですか? あなたここまでバカだったんですか!」 「おっ、マゴチがいるな? こいつは釣ったら早く食べないと一気に鮮度が……って、よしよし偉いぞ、ちゃんと血抜きしたな? それからガシラか。いい大きさだ、お煮付けにしよう」 「か……勝手に決めないでくださいよ!」 「スカイはいつも釣った魚を自分で料理にして食わせてくれるからさ、たまにはスカイのためだけに、この鈍った腕を振るわせてくれてもバチは当たらないんじゃないか?」 「セイちゃんだけのため……に……?」 「任せろ。このスカイお墨付きの大バカが、スカイのためだけに、バカ丁寧に、バカ正直に、一世一代のバカ旨いおさかな御膳をバカ真面目に作るからな!」 「ぐ……、さすがにバカバカ連呼してたの、根に持ちました?」 「今だけな。それとなスカイ」 「……はい?」 「女房の妬くほど亭主もてもせず。俺にはスカイしかいるわけないだろ」 「ミッ!」 「よくもまあこんなところにポツンと一軒家みたいなユースホステルがあるって知ってましたね」 さすがに唐突な強行軍でお互いに疲労が濃く、一時的にこじれた関係を戻した二人の『ちゃんとした寝床に潜りたい』という利害が一致し、ランデブー地点から最近の宿に来ていた。 「昔、ユースホステルはよく使って旅をしたんだ。……まさかここが、当時の建物で当時のペアレントによってまだ運営されているとは思わなかったけどな」 「波止もあれば磯もあるし浜もあるし渓流もあるし、釣れそうなポイントも見た感じたくさんありそうで、それに釣船出してくれるところもあるみたいですね。セイちゃんここ気に入りそうですよ?」 「また今度、……今度はちゃんと二人で来よう。……ここら辺は、俺が来ていた当時はバスの終点でターミナルがあって、東からだけでなく西からも南からも接続があって、栄えているとまではいえなかったが結構拓けた町だったんだ」 「……それにしても、普通、ユースホステルって二段とか三段ベッドの相部屋で、厳格に男女別で、ダイニングでは強制的に交流会に参加して……って宿でしょう? いいのかな男女で一部屋に入っちゃって……」 「スカイが云うユースホステルのスタイル、それはもう相当昔の話だな。今は多様性の時代だから、交流会には個を大事にしたいという旅行者を巻き込まないし、交流会自体を宿側の主催でやらないところも増えた。夫婦だとか家族だということが確実で部屋に余裕があれば、男女混合でもこうして同じ相部屋を事実上貸切で配置してくれる。そも結構前からビジネスホテルかと思うような完全個室のユースもあるくらいだぞ?」 「む……。また私の知らないあなたが出てきた」 「そう言われてもなぁ。別に悪意で隠しているわけではないし、尋ねられれば隠し立てもせずに話すけども、訊かれてもいない過去のことで毎度のように妬かれるのは、さすがに困るかな?」 「……ごめんなさい」 「よろしい。……さすがに今回は、俺に致命的なミスがないからフォローができない」 「……ね、あなた。隣、行っていいかな?」 「男女同室こそできるようになったとは云え、ユースホステルで不純は歓迎されないぞ?」 「不純じゃないもん。妻が愛する夫の隣に寄り添うことは不純じゃないもん。だからセイちゃんを、この世界でたった一人の愛してる大好きなあなたの隣に置いてください。いじわるしないで……」 「あのトリックスターも素直になるとこんなに強いんだな……そう拗ねるな、ほら、おいで」 「えへへ……。わたしだけのあなたに、あなただけのわたしがくっつきますよ?」 そっと身を寄せ合いながらどちらが先ということもなく意識を手放し、揃って鼻をグズグズさせながら這々の体で店まで帰り、二人してまだ真新しいダブルベッドでしばらく唸っていたのは別の話になる。 |