#0002 『夢で終わらないメルヘンに』 「良かったぁ! セイちゃん良かったね!」 桜がちらほら色気を出してきた土曜日。カウンターでミルクをたっぷり入れたアメリカンを啜っていた少し丸顔のウマ娘が、花に負けないほどに華やいだ。 「おやおや、相変わらずスペちゃんは気が早い。はたしてそうですですかね……?」 手際良くサンドイッチを半分に切っていた葦毛のウマ娘が、難しい表情で小首を傾げる。 「考えてみてくださいよ。私ももう製造から半世紀が過ぎちゃったんですよ? 今更子どもを授かれるわけでもないし、向こうは仕事しかしてこなかったいわゆる社畜だってのに、その仕事からももう不要だって定年で袖にされた、これからもう先のない無職の年金受給者。余暇を過ごすにも杖とする趣味もなく、朝から晩まで畳に根が生えたように居座って、やれ茶を汲んで来い新聞持って来い耳かきはどこだメシ食わせろってがなり立てる騒音製造機になる未来しかないんですよ? なんだってそんな不良債権をこの歳で背負い込まなきゃならないんでしょうねえ」 「あら、そんなことを言っているけど」 向こうのテーブル席で編み物をしていた、端正だが目尻に苦労が刻み込まれたウマ娘が応じる。 「その割には左手のリングを、暇さえあれば愛おしそうになでて、温かい顔で笑っているわね。それに誰しも早口で捲し立てるときは、それは本心からの言葉ではないというのが世の常よ?」 「そうですよセイちゃん。殿方を、ましてや本人のいない場所で貶すものではありません」 傍らに得物を入れた袋を携えた和装のウマ娘が微笑む。 「そうデス。幸せなのに隠す必要ありまセン!」 「そりゃあ、みんなは結局のところ、他人事だもん。これからこのセイちゃんがどれだけ苦労しどれだけ不幸になったとしても、自分たちには何にも影響ないんだから」 「あなた本当に相変わらず口は減らないわね」 「へいへい、どーせセイちゃんは口だけですよ」 「だけど聞いたデスよ? 最終直線での猛烈な追込みをかけたことを!」 「え? 追込み? セイちゃんは昔から逃げメインでしたけど?」 「そうではなくて、今回の人生を賭けたレースのことよ。自分の思いを全部ぶつけるまで、その返事を聞くまで逃げなかったこと。スカイさん、あなた強かったわ」 「ミッ! その話、誰から……?」 「誰からも彼からも、あなたの元トレーナーから私の一流の夫を経て、よ」 「ぐ……あの人は……」 「とにかく、今日はあなた達の記念すべき日になるのですから、そういう細かいことは抜きにしましょう?」 「そうデース! 夫婦喧嘩は犬でも食わないのでベッドの上でやってくだサーイ!」 「エル」 「でもね、私は、セイちゃんがそんなセイちゃん節をまた回せるようになったのが、何より嬉しいよ?」 「うぅ……ツルちゃぁん! 心の友よ! ツルちゃんだけだよ揶揄わずに寄り添ってくれるの! 嬉しいからセイちゃん、ツルちゃんにだけ当店の永久コーヒー無料パス発給しちゃう!」 店の出入口の扉が開く。カウベルが鳴るとともに、『本日貸切営業 明日より暫くお休みを頂きます』という貼紙が見えた。 「ただいま。……みんなもう来てくれたのか。特にスペシャルウイークは北海道からわざわざ。本当にありがとう」 「おかえりなさいあなた。買い出しありがとう」 カウンターから飛び出した葦毛の壮年ウマ娘が、エコバッグを抱えた初老男性に駆け寄った。 「いつもの卵がなくてね。パックの単価が十六円上がるけど、いいのを買ってきたよ。それとバター。薄力粉も高かったけど強力粉が特売でプラマイゼロ。ジャガイモも高くなっていたけどサツマイモが下がっていたから、ジャガイモ多めでマッシュして混ぜれば、少し甘味が出て面白いかもしれないと思って、独断で調達した」 「えぇ、勝手に判断しないでくださいよぉ。実際にその調合を考えるのは、あなたじゃないんですからね?」 「あ、あぁ……ごめん」 「しかたないですねぇ。まぁ、夫の不始末には妻にもその責任がまったくないわけでもないので、セイちゃんがなんとかしますよ」 「ごめんなスカイ、勝手な判断で勝手なことをして。……とりあえずこの食材、厨房に置いてくるから……」 「おっと、ちょっと待って。何かとても大事な約束事を、忘れていませんかね?」 自分の唇に指を当てて、そこを離れようとした老年の裾を引くウマ娘に、若干の戸惑いを浮かべつつもそっと唇を添えて引っ込んでいく。 「あらあら、お熱い新婚ですこと」 和装のウマ娘が口に手を添えてくすくす笑う声を耳に入れて、葦毛の尻尾が逆立った。 「しかたないよグラスちゃん。グラスちゃんだって新婚のときは、あれより熱烈だったんだよ?」 「あらぁ、そうでしたか? 忘れました」 「卑怯だよ忘れたなんてグラスちゃん!」 「それよりスカイさん、そろそろ時間よ? もうすぐみんな揃うと思うわ。あなたの夫と一緒に、着替えてきても良いのではなくて?」 時計の針は二時前になっていた。 「えっ、もうそんな時間?」 「さっさと着替えてくるデース」 「お料理は任せなさい。キングが一流の腕を振るってあげるわ!」 「私も頑張る! 任せておいて!」 「特製サルサも持ってきましたヨ!」 「じゃあスカイ。……そろそろ行くか」 「う……うん。なんだか、緊張する……」 「そうか。俺もだ」 「あなたも?」 「当然だろう。三十六年前に、もう叶うことはないと諦めた夢が、ついに叶ったんだぞ?」 「あなた。……本当にあなたは、これで、私と籍を入れて良かったの?」 「最近な、毎晩、眠るのが怖いんだよ。……意識を手放して再び取り戻したとき、このメルヘンは夢として消えているんじゃないかって」 「私もですよ。だからこそ」 「うん。誰か第三者に、このメルヘンが現実であることを証明してもらう。……そのための会だったからな」 「……行きましょうか。披露宴のようなものに」 かすかに震える手で『もう行っていい?』とメッセージを打つと、すぐに『待ちくたびれたわ』と返ってきた。それを見て花嫁は隣の婿に腕を絡ませて、扉を開けた。 「な……なんか、思ったより疲れた……」 「ああ……。グラス夫妻が、高砂の謡までやるとは思わなかったよな……」 「しかも上手い」 「気取らないカジュアルなホームパーティーみたいな私設披露宴だからと伝えたんだが、えらく立派な和装で来るからさ、何か隠してるのかな妙だなとは思っていたよ」 「でも、これでもう、このメルヘンは現実なんだと証言してくれる人がいることに……」 「ただ……まぁ、こんなにも色々してもらって、却って申し訳ない気持ちもあるけどな」 力なく笑った声が絡み合い、次第に楽しい合唱に変わっていく。 「スカイはともかく、俺にはもうそこまで長い時間は残っていないけども。……だからこそ、その分を濃縮して過ごさないとな」 「そう簡単に幕は引かせませんよ? あなたの時間だったものも、そしてその命だって、今はもうあなたが自由にできるものではない。私の所有物なんですからね?」 |