#0001 『最後くらい我儘聞いてくださいよ』


 最後の段ボール箱にクラフトテープで封をして台車に積む。これですべての荷物を搬出する準備が終わり、俺は古ぼけた事務椅子に座り込んだ。
 原状復帰……というには、あまりにもここで過ごした歳月は長かった。あの柱の傷、そのホワイトボードのへこみ、この床のシミ。そのすべてはあの頃の出来事を鮮明に思い出すトリガーとして存在している。
「寂寥ッ! 今日が定年退職の日だったな!」
「ああ……秋川理事長。お疲れさまです」
「何を言うか、君こそ、四十余年もの長きに渡って、本当にお疲れさまだった」
「そうですねぇ……ここで、そんなにも長く過ごしてきたんですねぇ。まるで昨日ここに来たばかりのようです。門の前で、理事長とたづなさんが出迎えてくれたのが……あれがもう半世紀近くも前のこととは……」
「うむ。君はトレーナーとして本当に献身的に勤めてくれた。生徒達の育成に加えて後進の育成にも尽力してくれたこと、感謝に尽きない」
「それが仕事ですからね。公私もなく、およそ愛とか恋だとかいうものとも無縁に暮らしてきて、趣味と呼べそうな持ち合わせもなく、これから何をしてどう生きていけばいいのかよくわかりませんが、それでも、それはそれとして、ここまでいい半生を送ったものだと思います」
「謝罪ッ! 長年の拘束、本当に申し訳なかった……せめて、せめて君のこの先の人生が実り多きものであることを、心から祈念する! これはささやかだが、我々からの餞別として受け取ってもらいたい! ではこれで失礼するッ!」
 慌てたように立ち去っていった理事長の目尻に、僅かながら湿ったものがあったのを見逃さなかったが、宅配便のセールスドライバーが荷物を引き取りに来たこともあって、あえて見逃すことにした。
 次々と搬出されていく荷物を、何とも言えない複雑な思いで見送っていると、不意に作業をしていた運送会社のリーダーが声を掛けてきた。作り付けの小さな棚の隅にあった小箱はどうしますか、と。
 あの箱か。少し苦いものを噛み潰しつつ、それを受け取って礼をする。そうだ、これもここに置いていくわけにもいかないだろう。そんなものがあっても、次にここを使う新しい指導者が困るだけだ。

 ……さあ、泣いても笑ってもこれが最後。
 誰もいない最後の授業の時間帯を見計らい、誰もいない廊下を選んで、大きく迂回しながら学園の外に出る。もう目を閉じていてもどこに何があるか、勝手を知り尽くした校内だ。それだけのしがらみがあると、誰かに会えば引き留められて、歯の浮くような送られる言葉ひとつもかけられることだろう。そういうことは好まなかった。老兵はただ、そっと消え去ればいい。消え去った後に偲んでもらえれば十分だ。消えることを告知してまで、偽りかもしれない惜しみを聞きたいわけではないのだから。最後の最後に会うこともできず置いていかれる、引継ぎ済みの元チームメンバー達の顔が脳裏をよぎったが、彼女たちももう新しいトレーナーの指揮下で頑張っている。型落ちの旧型のことは忘れればいいと念を送る。それでもと云うのならば、かつての城だったあの部屋に、置き去ったクッキー缶にそれぞれに宛てた一筆を入れた。それを見て彼女たちが何を思うか何を言うか。それを見届けられないことは、少しだけ、心残りだった。


 正門の前にある支線の終着駅からワンマン列車に乗る。この時間にこの列車に乗る乗客はそう多くない。わずかに一駅の距離だし、本線に接続するその駅には普通列車しか停車しない。便利を考えればこの支線で本線に乗り継ぐよりも、少し歩いてその隣の本線の駅に出た方が、快速も停まって都合が良いのだから。……しかしそれでも、あえてこの列車に乗りたい気分だった。これまでのトレーナー生活は何かと急ぎすぎたし、担当達を急がせすぎた。少しだけ、ゆっくり過ごしたかった。
 旧型の車両は大きなドア閉めの音を響かせた後、足下の安全を確かめるようにゆっくりと走り出した。僅か一駅の区間を、のんびりとゆっくりと、本線に絡みついていく。
 時間にしてわずか四分の列車旅。この駅も、ホームに降りたとしても乗り換えで使ったことしかなく、周囲に何があるのかすら知らない。四十余年も近くにいて、だ。
 そんなトレーナー生活の中で一度くらい、この駅の外に降りてみてもいいはずだ。そして今日はそのトレーナー生活最後の日だ。今日を逃すと、もうここにトレーナーとして降り立つことができないのだから。
 駅前は静かな住宅が建ち並び、だが所々には商店がある、住宅街とも商店街とも表現できない街路があった。その中にひっそりと、一軒の喫茶店があるのを見つけた。
 決して今風のカフェではなく、さりとて往年の純喫茶でもない、そういう至極普通を醸した店。そういう平々凡々なところが逆に興味を引いた。また、今が昼前であることも思い出した。ここで現役トレーナーとして最後のランチを食べるのも悪くないだろう。一流レストランのように格式張って味がわからないなどというのは嬉しくないし、といってあまりにも気取らずに数百円の丼物で済ますのではあまりにも風情がない。軽い気持ちでその扉を押した。
 店内には客はおらず、音もなかった。奥を見るとカウンターの横に、今時アナログなプレイヤーがあり、店の主らしきあまり大きくない女性がレコードに針を落とすところだった。
「いらっしゃいま……え! トレーナーさん?」
 弾みでプレイヤーに身体をぶつけたのか、ビャッというノイズが店内を走る。その声の持ち主は、壮年の葦毛ウマ娘だった。 「ん……?」
「……あ~……そうか。もう最後にお会いしたのも本当に相当前ですからね。トレーナーさんが気づかないのも無理からぬことです。思い出せませんか?」
「いや……もう四十年以上トレーナーをしてきたものだから、ウマ娘の知人はそれこそ何千人といてね……」
「そうですか……。じゃあ、これで少しでも記憶がつながりませんかね? 『ふっふっふ。青雲の志、今こそ見せてあげようじゃないか!』って」
「……あっ! 君は!」
「思い出せましたね? そうですよ、あなたのセイちゃんですよ、にゃははっ」


 思い出した。鮮明に。
 悪戯っぽい瞳、時折ほんの僅かに首を傾げる仕草、そして雰囲気。
 今日がトレーナーとして最後の瞬間なら、それはトレーナーとしての第一歩を踏み出したとき。自室として宛がわれたトレーナー室に丸まって心地よさそうな寝息を立てていた、その娘だった。
「おや? 驚きのあまり声も出ませんか?」
「……いや、本当に驚いた、こんなことはまったく想定していなかったから……。最後は四十年ぶりか……。あれからお互いに連絡することもなく、漠然と、もう生きて会うこともないだろうと確信していた。だから、目の前にいるのがこんなにもスカイそのものだというのに、それに気づくための回路が完全に遮断されていた……すまない」
 まるで新潟のあの夏の直線を疾駆した後のように胸を締め上げる感覚にさいなまれ、心臓の上を掌で押さえる。鼓動はいつもの倍ほど速かった。喘ぐように深い呼吸を繰り返し、思わず傍らにあったテーブル席の椅子に座り込む。
「トレーナーさん、ご注文、どうします?」
「……え?」
「え、じゃないでしょう。ここは喫茶店なんですよ? 何も頼まないのなら追い出しますよ?」
「あ、ああ……。とりあえずコーヒーを」
「ちょっとぉ、ここはチェーンの居酒屋じゃないんですからね、とりあえずってなんですか、とりあえずって。まるで薄めた発泡酒を偽って出したビールみたいな言いぶりですね。……ええっと。あの頃のトレーナーさんは、お抹茶入りの緑茶飲料をよく飲んでいましたよね。抹茶はカフェインが多くて天然のエナジードリンクだ、とか言いながら。……表メニューには載せていないんですけど、お抹茶はいいのを置いてあるんですよ。あの和のテイスト大好きグラスちゃんがイチオシにしている、高くはないけどとても上等なのが」
 お冷やを持ってきていた彼女は、エプロンドレスの裾をふわふわ動かしながらカウンターに引っ込む。コンロの火花が飛ぶカチンという音、次第に主張するケトルの笛、注がれる水音。
「はいはーい、お待たせですよトレーナーさん」
 やがて、黒文字を添えた小皿の羊羹とともに、湯呑みが置かれた。
「お抹茶そのままはセイちゃん苦手なので、こうやってお煎茶と混ぜてるんですよ。……トレーナーさんも、いつもお抹茶をこうやって頂いていましたよね」
「よく覚えているな……」
「そりゃそうですよ」
 彼女は一度、店の出入口の扉に向かい、提げていた札を裏返した。
「なにを?」
「本日の当店の営業は終了ですよ」
「えっ?」
「せっかくトレーナーさんが来てくれたんですよ? ほかのお客さんにかまけつつ接待するのはちょっと。積もる話もありますし。にゃははっ。……ご心配なく。店は閉めましたから、トレーナーさんから一文のお代でも取ろうなんて思っていませんので」


「へぇ……定年退職の日。トレーナーさんがトレーナーさんでいるのは、今日が最後なんですか。お疲れさまでした」
「ああ……うん、ありがとう」
「その最後の日に、そしておそらく最後に会うウマ娘が、トレーナーさんが意図してそうなったわけではないとはいえ、セイちゃんだったんですね?」
「そういうことになるかな……ここを出た後に他の誰かに、ということがなければだが……」
「む、それは大変。対策しなきゃ」
 彼女はそう言ってテーブル向かいの席を立ったかと思うと、グラスとボトルを持って戻ってきた。何も言う前にコルクをポンと抜き、中のワインが注がれる。
「ささ、トレーナーさん、どうぞ。定年まで無事完走した祝杯ですよ? ……それとも、セイちゃんが注いだ酒が飲めないって言うんですか?」
 一瞬だけ真顔に戻った彼女から洩れた気迫に有無が言えなかった。俺はどうしようもない下戸なんだが。……ええい、どうにでもなれ!
「そんな脅えた顔をしないでくださいよ。私はただ……トレーナーさんにとって初めてのウマ娘であったと同時に、最後のウマ娘になりたいだけなんです」
 彼女の視線が床に落ちた。
「そこまでの紆余曲折はいろいろあったわけですが、それはとりあえず今は保留するとして……短くとも今日という日が終わるまでは、トレーナーさんを私のそばから離したくないんです。そうすれば……」
 視線が戻ってきた。
「私は、あなたのトレーナー生活において、最初に会ったウマ娘で、そして同時に、最後に会ったウマ娘だったという実績がつくんですから」
「無茶が……ないか?」
「ええ、私が言っていることがめちゃくちゃだという自覚がないわけではありませんよ。でも、あなたが今日の終わりまでほかのウマ娘と会わなければ、私がトレーナーさんの長きに渡るトレーナー生活において、最初で最後のウマ娘だったというのは、たとえこじつけだろうが真実になりますよね。……それだけで、それだけでいいんです。せめて、私にそれだけでも、いただけませんか?」
「どういう意味……」
「ここまで来てまだボケるんですか、トレーナーさんは。どうもこうもないです。三十六年前に、私が持てる限りを超える勇気を振り絞ったときに、トレーナーさんは私のその思いに応えてくれなかった……でしょう?」
 本当に忘れたくて封印をしたパンドラの箱が開いた。頭がズキリと痛む。
「わかってます。確かに、あのときは私、絶望に打ちひしがれたし、キングもツルちゃんもスペちゃんもエルもグラスちゃんもずっと寄り添ってくれました。でも。……今後もトレーナーとして私たちの後輩を導くという立場上、どうあっても、少なくともあの時点では、絶対に、それに応えるわけにいかなかったんですよね」
「……本当に申し訳ない」
「しかたないですよ。トレーナーさんはいつまでも私専属のトレーナーさんではないんです。それでも私に応えようとしたら、トレーナーであることはもうできない。……そのことに、傷心で卒業して何年も経って、社会に出て、ようやくその概念が見えてきましたから。そしてそのとき、私がもう一度トレーナーさんに会って、思いの丈をぶつけていれば、あるいは何か違う結末があったのかもしれません。でも私はそれができなかった。……ううん、他人のせいじゃない、私がそうしなかった。だからもう、トレーナーさんをなにひとつ恨むことなんかできないし、事実として、なにひとつ恨んでなんかいません。でも」
 少しだけ寂しそうな顔を作った。
「恨みはしていませんけど、それで『はいそうですか、そういうことだったんですね』と切り替えられるほどまでには、私はオトナになれなかったんです。だから、ほら」
 左手を突き出してきた。
「今でも薬指には枷がありません」
「……悪かった」
「だから恨んでいませんよ。これはただ、私が、あなたからの枷でなければ填められたくなかったというこだわりが強くて、単に執着をしすぎただけですから。……もっとも、こんな意固地で不器用などうしようもない私に言い寄ってくる男の人なんていなかったか、いたけど私のあなたへの執着があまりにも強すぎて、それに気づくことができなかったのか……そういうことです」
「そうか……」
「だから」
「……?」
「それでももし、本心からほんの少しでも悪いと思っていただけているのなら、せめて明日を迎える瞬間まで、私のそばにていて、長いトレーナー生活で私を最初と最後のウマ娘にしてください。それはほんの些細な称号なのかもしれませんが、それは私にとっては喉から何本手が出てでも欲しい称号なんです。……それくらいの、トレーナーとして最初の担当からの我儘を、お願いですから叶えてくださいよ」
「そうか……」
 大きなため息が出た。
「なあ、スカイ?」
「なんですか? トレーナーさん」 「三十六年って、どれくらいの時間かな?」
「永遠にも感じるくらいの長い時間……ですね」
「そうだな、我々のような種族基準だとな」
「え?」
「地球の年齢はざっと四十六億歳だそうだ」
「ええ、学校でそう習いましたね」
「もしその地球からすれば、三十六年なんてちょっと吐いたため息ほどの長さですらないだろうな」
「はい?」
「つまり、その年月を永遠にも近しい時間ではなく、ほんの瞬間だったと切り替えてごらんという話をしている」
「む。……昔からそうですよね。トレーナーさんはそうやって、とても理屈っぽいところがありましたね。……わかりましたよ、じゃあ、この三十六年を瞬間だったと認識を改めましょう。……それで、どうなるんです?」
「こうなるんだよ」
 まだ枷がないことを示していたその手を右手で掴んだ。驚きの声が漏れたが気にしない。左手をスーツの内ポケットに放り込み、片手であの箱を開け、中身を外に出して、スカイの左手へ向ける。
「……ふぇっ?」
「間の抜けた声だな」
「え、いやだって、これ……」
「わからないか? 指輪っていう装飾品だが」
「あ……う……」
「単純計算をするとあの日に答えを出さなかった分の三十六年縮んだが……それでもいいなら、スカイの残りの時間を、譲ってはもらえないだろうか?」
「……はい……。でも、条件があります」
「条件?」
「あなたの時間と交換です。私の時間だけ奪っておいて、あなただけが自由だなんて。そんなことは、絶対に私、許さないんだからね!」
「そうだな。この命ごとくれてやる。だからスカイ、君を全部くれ」
 その返事は、テーブル越しに首っ玉に齧り付く両腕だった。




「指輪……えへへ……左手の薬指の指輪……」
「……泣くのか笑うのか、ちょっとはっきりしてくれないか?」
「だって……えへへ……。夢では何度も見たけど……本当に……えへへ」
「気持ち悪いなぁ……」
「五十過ぎのオバサンだって、根底にあるのは夢見る乙女なんです……えへへ」
 左手を掲げて見上げたり、逆に降ろして見下ろしたり、近づけたり離したり、……とにかくセイウンスカイは満面の笑顔に涙を浮かべながら、俺が填めた左手の指輪を眺めていた。
「でも、あんな無理やりな填め方は減点ですよぉ? もうちょっとこう、ロマンティックに、恭しく跪いてそっと手を取って、ついでに手の甲にそっとキスなんかして、それから填めるとかですね……」
「そこまで言うなら返せ」
 俺は目の前にあったスカイの左手からその指輪をひったくった。大きな非難の声が飛ぶ。
「昔からそうだったが、あんまり大人をからかうんじゃない」
「ふぇ……ごめんなさい……だって、でも……」
 厳しい顔で仁王立ちをして、指輪をハンカチで拭いて箱にしまう。その箱は元の胸ポケットに押し込んだ。
「まったくスカイは、成長というものを知らない。目の前にいるのは機械じゃないんだ、心に血が通っているヒトなんだ。云いたいことはわかるか?」
「……ごめんなさい……ごめんなさい……」
 スカイは涙をこぼす。先ほどとは違うベクトルで。
 ……よし、そろそろ頃合いか。

「えっ……?」
 鳩が豆鉄砲を食らったような顔、とはこういう顔だろう。
 スカイの前に跪き、あの箱を開けて掲げて、スカイの顔を見上げる。
「セイウンスカイ、誰よりも貴女を愛しています。結婚してください」



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