#0001 『それは音ではなかったけれど』


 衣替えを迎え、再び冬服に袖を通す時期。
 異様な暑さだった夏もその力を失い、日中に屋外に出ても不快な汗に悩まされることは少なくなった。
 一時限目は英語、二時限目は地理の授業だったと記憶しているけれど、それに出席することなく、私・ペリドットグリーンは屋上のベンチに座って、ただ地表にこびりつく建物と空との境界を見つめていた。その行為に何かの意味があるわけではなく、ただ無為に時間が経過するのを感じているだけ。
 異変が起きたのは五月初旬の連休中の日曜日。最初は不思議な現象だった。
 朝の七時から三十分間、私は日曜日のその時間をいつも楽しみにしていた。とてもミステリアスで憂いのあるウマ娘女優。その女優がこの時間に、これは本当にプロによる仕事としてやっているのだろうかと首を傾げたくなるような、そんな緩い生放送のトーク番組をやっている。無がそこにあることを確認するような時間を過ごすのが日曜日の朝のルーティンだったのだけれど、その日は目を覚ましたとき、既に九時を過ぎていた。番組を聞き逃していた。
 放送自体は番組ホームページにアーカイブが置かれるので問題ないけれど、確かに六時半に電話のアラームをセットしたはずなのに。そう思い確認すると、確かに六時半にアラームはセットされていたし、その時刻に作動した形跡すらあった。
 次に訪れたのは強い違和感。寝床の中で動いているのに、衣擦れが聞こえない。
 それに気づき、恐る恐る掛布団の綿を叩いてみたが、耳は無の世界だった。衝撃を受けて発した自分の叫びも、本当に声を発したのかどうかすら認識できなかった。
 それから何をどうしたか、断片的にしか覚えていない。それも時系列順に整理することができない。
 覚えている範囲では、熊本の阿蘇から酪農家の両親が来た、牧場の牛を放り出して。牧場で搾ったミルクのような現実離れをした顔色。病院で様々な機械に取り囲まれた。まだ入職して間もないのか、若い看護師に腕に何度も針を刺された。
 執拗に精密な検査を行った。調べるために必要な指示を色々言われたけれど、それもまったく聞こえなくて、苛立った、意味通りにミミズが這ったような誤字だらけのメモ用紙を突きつけられて、書かれていることをやった。
「聴覚検査で聞こえているのに聞こえないと詐称しているだけだろう」
 そのときは読話というスキルがあることすら知らなかったので、本当は何を言ったのかわからない。ただあの表情と横にいた父母の表情の変化、怒りと絶望の空気感から、その老医師は、おそらくそれに近しい言葉を吐いたのだと思う。その老医師は宿直室から旧式の目覚まし時計を看護師に持ってくるように命じたらしく、私の背後、見えないところから接近した看護師が耳元でそのベルを鳴らした……らしい。
 本当は聞こえているならば、耳元で轟音が鳴れば聴覚を護るために反射的に耳は塞がるように動くらしい。そしてその老医師は私の耳が音を避けると確信していたらしい。けれど、私の耳は微動だにしなかったと、まったく音を認識していなかったと、後に筆談でそう知らされた。
『原因不明の突発性難聴による完全失聴』
 原因が特定できないので、いつか聴覚が戻るかもしれない。そう慰められたけれど、女の勘とでも言えばいいのかもしれない、おそらくその日は生きている間に来ることはないことを、私は悟っていた。
 桜が散って、そして稲穂の頭が垂れ始める頃まで。私はせっかく編入できた学校を休学した。病院と支援施設を往来して、リハビリという名の手話の猛特訓を受けるために、だ。私に手話を教えてくれた支援施設の教員は、物覚えが悪かった私に本当に根気強く眼で声を聞くためのスキルを教えてくれたけれど、それは本当にスパルタ式に叩き込まれ、そのことからも、少なくとも短期的には、もう耳で声を聞くことができないのだって悟るのに十分な根拠だった。
 茫然自失の表情で、なんとか唇だけ口角を上げて私を安心させるためだけに作った両親の笑顔が痛々しくて、私はあの日曜日から、実家がある阿蘇に帰ることが、できていない。あんな両親の顔を、もう見たくないから。阿蘇の風が話す言葉が聞こえないから。
 本当にもう、何故、という言葉しか出てこない。
 無音の世界。自分の声すら、もうどんな音色だったのか思い出せない。確認することもできない。
 いま、私は悲しいのだろうか、寂しいのだろうか、悔しいのか、あるいは存外平気なのか、それもわからない。
 ただ、それでも、教室にいるよりは、まだ、ここにいる方が良い。
 私が音を私の世界から排除したように、あの教室を始め、生徒がいる場所に私は存在を許されていない。今はそう明確に突きつけられていないけど、過剰に甘えればそうなる。前例がある。
『音が聞こえない子にこのチームにいられても困る』
 チームから除名すると、師事したトレーナーから渡されたメモ用紙の文字。皆が私をそう評価することは薄々気づいていたけれど、それでも明確に突きつけられるのは苦しかった。
 ……退学するには、何をどうすればいいのだろう。教室にいることも拒絶されている私は、ひいてはこの学校にいることも否定される存在だ。退学、それが自然だ。そう思った。……後になって、あれは追い詰められて下した誤った判断だと気づいたけれど。
 ……ふと。背後に誰かがいる気配を感じる。
「誰?」
 振り返ると、見知らぬ男のヒト。おそらく二十四歳か二十五歳くらい。決して顔の造形は悪くないのだけれど、炭酸が少し抜けたソーダのような、いまふとつピリッと締まった印象がない人……それが第一印象だった。だがその評価はまったくの勘違いであることを、すぐに知ることになったけれど。あれは締まらない顔じゃなくて、柔らかい顔だったんだって。
 そんな彼が口を開こうとしたので身構える。どうせ理解することはできないのだけれど、おおよそ何を言うかくらいのことは推測できる。授業中の時間に何をしているとか、そういう類だと。
 でも違った。色々な意味で。
 文字にして五文字くらいは声が出たのだろうと思うけど、何かを思い出したかのようにその口に手で覆って、そして仕切り直すように私を見て、両手が上がった。
『……てくるよ』
 空中を舞う手。少しして気づいた、手話だった。
 私の中にあった想定問答の中に、そんな場合のマニュアルなんか作ってなかった。そんなことが起きるという想定は、ただの一度も考えたことがなかったから。
「えっ?」
『もうすぐ、雨が降ってくるよ。レーダーでは、あと七分後くらいだ』
 それが二つ目のインパクト。初対面の男の人が手話で話しかけてきて、しかも私を咎めることは言っていない。
 そのことに理解が追いつかない。
 彼はそれを意に返さず、なぜか右手首の腕時計をちらりと見た。ということは、利き腕は左なのかもしれない。
『いま教室に戻るのは授業中だから却って目立つ。とはいえここで雨に濡れて風邪を引いても大変だ。トレーナー室に行こう、お茶くらい出すから休んでいけばいいよ』
 だめだ。まだたったの三十秒も経っていないのに、それまでに脳に流れ込んできた情報量が多すぎて処理できない。
「……うん」
 情報を正確に認知しないと、その認知した情報を使って判断することも、その判断を根拠に行動することも難しくなる。でも私の直感は、目の前にいる手話で話しかけてくれるトレーナーに従うことを即断してしまった。完全失聴者になって自暴自棄から不良になった少女という私の設定。そんな認知すら吹っ飛んでいた。
『この棟の二階だ。おいで』
 階段室。ここならもういつ降るかわからない雨だけは問題がなくなった。私は質問を投げた。
「私の誰何、知っていたんですか?」
『聴覚を失って自暴自棄から不良少女になっている生徒がいる。そういうことをトレーナーの全体集会で聞いている。僕は君を、その生徒だと思っているよ』
「だったら、どうして? 不良だよ?」
 トレーナーは私の目をじっと見た。何かを見透かされるようで私は表現できない恐怖感を覚えたけど、その時間はたった三秒にも満たなかったと思う、手が語る。
『今の時点で、君が本当に不良少女だと判断するための根拠がない。そして、もし不良だとしても、だからといって土砂降り雨の中で屋上に立たせておけばいいとは思わないからね』
 ……なんとなくわかった。直感が、雨宿りを提案してきたこの人に従うことを考えた理由が。

 ◇ ◇

 彼に案内された部屋は、私が知っているトレーナー室のイメージではなかった。
 事務机があって、書棚があって、ソファーセットがあって、ホワイトボードと長机と、折りたたみ椅子が数脚。あとは小さな冷蔵庫と電子レンジ、食器棚。ここを根城に仕事をするために最小限の道具しか置いていない事務的な部屋。私を捨てたトレーナーの部屋は、もっと華美だった。典型的な陽キャの部屋だった。
 私が下した部屋の評価を察したのか、彼の手が語る。
『トレーナーだと言っても、まだ就任から半年だ。今は僕に師事している子もいない。こんな部屋を支給されているけど、それに報いる働きは、まだできていないんだ』
 ソファーの背もたれをポンポンと叩いている。ここに座れというジェスチャー。私はそれに従った。
 やがて客用らしい小綺麗なティカップをソーサーに乗せた紅茶と、小皿に出した市販のビスケットが六枚。
 私の前に座ったトレーナーさんは、洒落っ気のないマグカップの紅茶。
『こんなものしか出せなくて悪いけれど、召し上がれ』
 トレーナーさんは薄く微笑んで、手でそう言ってくれたのに。
「たかだか手話くらいで私を手懐けられるとか思わないで」
 それはただの見栄から出た強がり。言った直後、彼を傷つけたと思った。
『その通りだと思う。手話ごときで偉ぶるような大人に僕はなりたくない。それと、その程度で手懐けられてしまうような子は、そもそも不良なんかではない。不良の役で本心を隠しているだけだと思うよ』
 言葉を失った。挨拶程度のカタコトの手話ができるだけで俺は手話が使えるんだと尊大になる健聴者を、聴覚障害者になってまだ数ヶ月の私は、そんな期間だけでも何人も見た。でもこの人は、手話が使える、それもきっと私よりこの手は言葉を知っているいうのに、手話ごときと言った。この人は、健聴者が手話を操るというスキルを、おそらく日本人がアルファベットをエービーシーと発音できることと同じくらいにしか評価していないんだ。更にこの人は、私が強がったことも知って、でもそれを無理に暴こうとしていない。
 ……この人、どうしてこんなに優しいのだろう。なんでこんな人に対して肩肘張ったのかな。そう思った。
「ごめんなさい」
 彼はビスケットを一枚摘まみ、それを私のほうに突き出す仕草をした。遠慮せずに食べていい、それはそういうジェスチャー。私は手を伸ばして一枚を手に取った。
『悪いことをしたと思ったとき、君はちゃんと謝った。だから君は大丈夫なんだ。不良なんかじゃない、大丈夫』
 それを眼で聞いて、もう限界だった。こんな耳になってしまってからのわずかな時間で抑え込んでいたたくさんのものがあふれ出てきてしまう。強がって背伸びして不良を演じていたけど、それでも私はまだ十六歳にもならない未熟な子どもだった。私のキャパシティで制御できるものじゃ、なかった。
 そっとハンカチが突き出される。彼の頭が前後に振れる。それは泣けばいいという承認。私はハンカチを受け取って、ソファーの背もたれにしがみついて、抑圧していた感情を吐き出した。

 ◇ ◇

 気がついたら、私の知らない天井があった。身体の上には薄いタオルケットと、その上に男物のジャケットが載っていた。トレーナー室で泣き疲れて、そのまま眠ってしまったのか……。とにかくたくさん泣いたことを思い出す。私が泣くことを疎ましく思わない人の前で泣けたことで、涙が心で固まっていた錆を一緒に持って行ってくれた。心が少し広くなった気がする。
 上半身を起こしてソファーに座る。事務机ではトレーナーさんが、何かの本を読みながら、メモ用紙に時折ペンを走らせいた。とても顔つきが真剣で、声を掛けてもいいかどうか逡巡する。
『おはよう。さっきの顔よりとても可愛くなった。気分はどう?』
 私に気づいて彼は向き直って、手話で質問してくる。
「少しだけ、楽になれたと思います」
 その回答に安堵したように事務椅子から立ち上がって、トレーナーさんはまたお茶を入れて、今度はサンドイッチを出してくれた。
『さっきのビスケットじゃお腹に溜まらなかっただろう。昼食にしてはあまりにも遅いけど、食べるといい』
 確かに空腹だった。ビスケットのときのような遠慮もなく、私はハムサンドを手に取った。ちょっとだけマスタードが利いたマヨネーズ。シャキッとしたレタス。ハムの塩味。具材を挟んだブレッドは小麦が香ばしくて、私は次から次へとサンドイッチに手を掛けていた。
「ごめんなさい。もしかしてトレーナーさんも……サンドイッチ食べるつもりでしたか?」
 サンドイッチは六つもあった。今はもうない。当たり前だ、私がその六つとも食べてしまったのだから。
『食べ盛りの歳にちゃんと食欲旺盛なのは健康的でいいことだ。もしもまだ物足りないなら、レトルトの雑炊ならあるよ?』
 まただ。
 この人は、ここまで一度も私を咎めてこない。そればかりか更に、私をもっと満たすための提案さえしてくれる。
 だから私は。
「トレーナーさんに、餌付けされてしまいました」
 これが今のぎこちない私にできる、精一杯の愛情表現。
 読み取れたのかどうかはわからない。でもトレーナーさんは嬉しそうに微笑んでくれた。
「トレーナーさん、答えてくれなくてもいいけど、質問していいですか?」
『いいよ、なんだい?』
「いっぱい聞きたいことはあるんですけど、その中でもいちばん知りたいこと。どうしてこんな優しいんですか?」
 彼は手を動かそうとして、少し首を傾げた。
『君は手話をどれくらい理解できる? 手話を使い始めて何ヶ月だ?』
「えっ? そうですね、半年くらいです」
『じゃあ手話で伝えても情報量が多すぎて君が疲れるだろう、ちょっと待って』
 数分間、トレーナーさんはペンで何かを書いていた。そして、待たせたねと手で言いながら、小さなメモをくれた。
「僕の妹も中途失聴者だ。それが発覚したとき家庭環境は荒れた。だから僕は手話を覚えた。彼女は耳で声を聞くことができなくても、他人を受け入れられなくなったわけではないし、むしろ他人からの声を切望しているはずだと思った。だから、眼で声を聞かせれば理解しあえると思った。最初は僕の表現があまりにも拙くてなかなか思い通りに言葉が交わせなかったけれど、徐々に伝わるようになった。妹は昔のように素直な子になった。その再現をするために、君に同じアプローチをしただけだ。……ちなみに今は両親もバリバリの手話の使い手だし、とてもよく笑う仲の良い家庭に戻った……むしろ前より素敵な家庭になったよ」
 そう、書いてあった。
 それは優しい理由かといえばピントがずれているのだけれど、聞こえなくて荒れた人と会話をするために手話を覚えてしまう人が優しくないわけがないのだから、やはりこれが答として正しいのかもしれない。そう思った。
『四時半。もう寮に戻っても不思議はない時間だ。だから寮に帰ってもいいし、でも門限まではまだ時間があるから、ここで過ごしてくれてもいい』
「それならもう少し、ここにいさせてもらってもいいですか?」
 今の私にとって、ここが学内で、もっとも心地よい居場所になっていた。
 もう彼の前で、不良という既に剥がれかけていたレッテルは、そのまま捨ててしまおう。

 ◇ ◇

 彼女がまた来ますと手を振って部屋を出て行ったとき。彼はようやく、重たい息をついた。
「彼女に手を差し伸べて良かったのだろうか。果たして自分に、彼女を導く力が本当にあるのか……?」
 差し伸べた手を、彼女は信じて握ってくれた。もしその手を、不可抗力だとしても振り払ったとしたらどうなるのか。そのシナリオが脳裏をかすめる。かすかな、だが確かな震えが走り、彼は静かに、椅子に腰を落とした。


INDEX BBS